ある日森の中

ただただ適当に

思い出を手に

最近イケイケの鉄道模型メーカーKATOが新製品を発表した。

www.jp-ngauge.info

いろいろとある中で一つ気になる製品があった。「特別企画品 スハ32系7両セット 中央線普通列車」だ。今でこそ2分間隔とかでオレンジ色の帯の電車が走り回っている中央線も40年も前には新宿から機関車に牽かれた客車列車が走っていたりしたのである。

当時1日に何本かあった客車普通列車の中で新宿を23:55に出発する425列車は通称「山男列車」と呼ばれアルプスを目指す登山客に親しまれたそうで、廃止になる時は廃止反対運動が巻き起こったという*1。今回KATOが出すセットもこの列車の再現を企図していることが紹介文から窺える。

この列車、実はちょっとした思い入れのある列車である。さすがに乗ったことがあるというわけではない。筆者はJRになってから生まれた人間だ。あまり思い出したくない小学生時代、私は世間から疎まれるNのマークが入った青いかばんを背負って電車に乗る生活をしていた。人間誰しも苦手なことはしたくないもので、当時から算数が大嫌いだった私は本来最重要である算数の勉強をほったらかしにして社会ばかり勉強していた。そのせいもあって社会の講師には非常に面倒をよく見てもらっていた。そんな中その講師から「君は鉄道が好きだったね。これを読んでみると良い」と言われて渡されたのが原武史の『鉄道ひとつばなし』だった。鉄道と社会とをゆるく結びつける氏の文章に私は引き込まれていった。実は新書1冊目しか読んでおらず、2巻と3巻をまだ読んでいないから機会があれば読みたい。

そんな『鉄道ひとつばなし』の中にこの425列車が出てくるのだ。原武史が小学生の時、新宿駅に夜旧型客車が止まっていてその中で弁当を食べていたという話だったと記憶している。しかしよくよく考えて見れば小学生が出歩くような時間帯に新宿駅にいる列車でもないし実は423列車だったのではないかという気がいまさらしてきたがそんなことはどうでもよい。この話を読んで以来中央線の旧型客車普通列車は私の心の片隅に常にポツンと居たのである。

そんな中降って湧いてきたこのセットである。買わないわけがない。買います。多分。しかし考えてみると本当に鉄道というのはあらゆる記憶を手繰り寄せる「きっかけ」を持つものだと思う、別に鉄道に限った話ではないけれど、ただその車両が好きという以上に「これに乗ったときあんなことがあった」「この列車の中でこんな話をした」という記憶はきっかけを中心に色鮮やかに蘇るものである。そんな郷愁に気楽に浸れるのが鉄道模型の最大の楽しみだと私は思う。

早い話がさっさと思い出の車両を皆買ってという話だ。楽しいから。ね?

*1:どうやら国労の合理化反対運動と抱合せだったみたいだが。

好奇心

いつの間にか11月になっていまして随分ご無沙汰でした。

sasamatsu.hatenablog.com

掘り返すような形になるけれど、この記事が投稿されてTLが少しだけ沸いたのももう1週間以上前の話になってしまう。自分の精液とこうまでまじまじと対峙をすることなんてそうはないわけだけれど言われてみればその内実はまったくもって気にされてないようにも思えるし、そう考えればなかなか好奇心も湧いてくるものである。

こう見えて好奇心はそこそこある方だと自認していて、気になったことは大概手元の便利な機械ですぐ調べるようにしている。「性」にまつわる知識についてもそうである。おニャン子が昔歌ったように女の子だけでなく、男の子だって十分耳年増なのである。しかし「性」に関する知識というのはどことなくオブラートに包まれていなければならないとこと教育界では信じられているように思われる。やれ性的な表現は子供から遠ざけねばならない、すぐに影響されて風紀が乱れるというのはよく見る意見だが、人間ダメと言われれば言われるほど「罪悪感」を「快楽」を感じるスパイスとして希求したがるというのをお金が貯まらない人に対する啓発サイトで見かけたからそういうの意味ないと思うんだよなあ。

話が逸れた。今日日そういう知識は目の前の画面に打ち込めば通り一遍の解答は得られるもんである。かくいう私もデジタルネイティブ世代、打ち込みまくりである。かつて国語辞典の性的ワードを蛍光ペンでチェックしていた腕が唸る。というわけでそんな生活を続けていると小さなところでの研究の進展に少し驚いたりするものである。例えば精液の匂い*1の原因とされる物質、少し前までスペルミンという直球な名前の物質の分解物とwikipedia大先生に記載されていたのだが、最近カダベリン*2という物質に書き換わっていた。有機化学どころか化学とはまったくもって門外漢である私には明言は難しいが構造式は両物質ともすごく似ているが生成のされ方がどうも違うようである。もしカダベリンが発見されていてスペルミンの分解物だと思われていたとしたのが違うと発見されたのだとしたら、小さいながらも一歩進んだ発見がされたことになりなんだかワクワクしてくるではないか。

また昔は「オーガズム」の項には人間はオーガズムを感じると前頭葉あたりの血流が少なくなるという記述があったのだが、今はその記述が消えている。いわゆる「オナニー害悪論」の一つの根拠だったりもしたのだが、典拠も見つからないためデマだったのだろうか。今は一部の機能が低下し、別の部分は活性化しているという記述がされている。またいらぬ知識が増えてしまった。

耳年増になっていくだけなってどんどん年増になったその先に私は何を見るのかを考えると穴の底に落ちていきそうになるな。

*1:ちなみによく言われるイカくさいというのは精液というか不潔な性器の匂いらしい。デオドラントケアはしっかり。

*2:この物質は腐乱臭の原因の1つらしい

幻影

sasamatsu.hatenablog.com

1週間も前の記事になるが、私も一昔二昔前の曲を誰かがカバーしている曲を聴くのはとても好きだ。そういえば一昔ってどれくらい昔になるのだろう。10年位を指すのだろうか。いつぞや記事にも書いたことがあるが私は何かと懐古趣味に走ってしまい、好きな曲は80年代~90年代邦楽、90年代アニメソングが多かったりする。

とはいえカバー曲を聴いたからそういう曲を好きになったというわけではなく、この傾向は割と小さい時からそうだった。その昔、日本テレビで「速報!歌の大辞テン!!」という歌番組をやっていた。放送される週のヒット曲トップ10と過去の同じくらいの時期のヒット曲トップ10を並列して紹介する番組で、調べてみると2005年に放送を終了していた。この番組、小学生の私にドストライクであり番組がプロデュースした平成と昭和のヒットソングを集めたアルバムCDが発売された時には喜び勇んで親を拝み倒して買っていただいたものだ。

だからなのかカバーソングを聞くと原曲を聴いて原曲にホレ込むことが多い。あと傾向として陰鬱としてるのに曲調が明るめな曲を好むようで、あみんの「待つわ」とか石川ひとみの「待ちぶせ」とかシュガーの「ウエディングベル」が非常に好きである。一方で90年代アニソンは自分の背中を押してくれるような歌詞にぐっと来たりするからわけがわからん。

最近魔法陣グルグルのED、「wind climbing~風にあそばれて~」を聞いていて、一緒にいてくれる「君」がいないと歌詞が成り立たないということに気づいて絶望したので「君」を探す旅に出たい。

ここさけ見た

今日は久々に映画を見に行った。どれくらい久しぶりかといえば記憶があるかぎり前回映画館に足を運んだのは劇場版まどマギの後編だったはずだから相当である。それもこれも映画館がちょっと出かけないといけない距離にしか無いのがいけない。で、何を見てきたかといえば

www.kokosake.jp

これだ。テレビで何かとCMもやってるし、主題歌を乃木坂46が歌ってたり、アニメのアフレコ初挑戦の吉田羊がキャスティングされたりと何かと話題の作品だ。私の大学の同期で主役の成瀬順を演じる声優水瀬いのりを推しまくっている奴がひたすらオススメをしてきたのでどんなもんかという興味もあり大学の時の先輩のご相伴に預り劇場に向かったのである。ポップコーン美味しかった。

で、肝心の中身についてだができるだけ避けたいところだし、やんわりと書くように心がけるがどうやってもネタバレになると思われるのでまだ映画を見ていない人で絶対ネタバレは嫌という人はこの記事は読まないほうが賢明である。すぐに上映館を確認してチケットを押さえていただければと思う。

 

さて、先に出てきた水瀬いのりゴリ推しの同期におすすめポイントを聞いてみたのだが「水瀬いのりちゃんの緩急ある演技と一筋縄にいかない脚本。」という答えが返ってきたのでこの2点に着目して思ったことを少し書きたい。

水瀬いのりちゃんの演技について

水瀬いのりといえば「ご注文はうさぎですか?」のチノ役で盤石な基盤を打ち立て、「がっこうぐらし!」や「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」など今を輝く声優だ。私は彼女の出演作を追いかけるほど見てはいないがなんとなく「こんな声なんだなあ」というイメージだけは持っていた。そういう意味では今回この映画で「言葉を封印された少女」を演じる中でその「イメージ」を少し破ってきたのは意外だったし面白かったと思う。なんというかコアにあるイメージは変わらないけれど外縁が広がっていっている感じがした。よく考えなくても自分より年下なんだし少なくともしばらくは様々な作品に出るのだろうからその中でさらに新しいイメージを生み出していって欲しいとちょっと楽しみになった。

・ストーリーについて

スタッフが大反響だった「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない*1と同じということもあり、触れ込みとしては「泣ける」とか「感動」とかそういうものであったのでその心づもりだけして劇場に向かった。結果であるのだが「いい話だがそれ以上でもそれ以下でもなかった」というのが正直なところである。こう「いい話だなあ」というまま凍った水面を反対側の岸までスイーッと滑っていく感じ。いい話をいい話で終わらせるというのはそれはそれで難しいところであるが、もう少し刺激があっても良かったのではないかと思った。こうスイーッと滑っていく途中でいきなり氷がバリッと割れる感じが欲しかった。ただ2時間という尺の中で詰め込みすぎれば何も理解できないまま消化不良を起こしかねない*2から仕方ないにせよだ。「感動」にこだわりすぎて綺麗に着地させすぎたのかな…と思ったし、パンフレットに記載の監督の話を見てもそういう映画を目指していたのかと個人的には思った。

あとこれはもう個人的な問題なのだが共感の依り代が自分には少ないというのを痛感させられた。私は野球部の元エースとかクラスの優等生とかみたいなキャラの違う人と対立し、打ち解けながらクラスの出し物を完成させる的な経験をしたことは皆無だし、中学時代の惚れた腫れた問題というのとは反対側にいたから、そういう群像を見せられるとどことなしに虚無を感じてしまうし、そこを依り代に「感動」を引き起こそうとされると素材不足で不完全燃焼を起こしてしまうのだ。

といろいろ書いてきたけども少なくとも面白くなかったわけでは決して無いし、音楽が素晴らしかったりもしたから見る価値はあるはずだ。吉田羊もさすがの演技だったのでオススメである。「いい話」であるのは折り紙つきである。

付言するなら内山昂輝の歌が恐ろしいほど下手だったのと、彼がしゃべる度に彼の小見川千明のモノマネをし、小見川千明がそれを聞いて「内山くんきら~い」って言ってたのを思い出して笑ってしまうのだけはどうにもならなかった。

*1:残念ながらこっちがまだ見れていない。ちょっと比較もしてみたい。

*2:「Charlotte」とか「AngelBeats!」とか。だからだーまえにアニメやらせるなら26話以上ないとダメなんだって。

仕事行きたくない

今週の月曜まで1週間ほどの休暇を頂き、あっちゃこっちゃ行ってたわけだが休みが長ければ長いほど揺り戻しが厳しい、というか現実に戻ってくるのが辛くなるということは分かっていながらも「現実」を目の前にするとやはりしんどいものがあった。

「仕事に行きたくない」というのは程度問題はあるにせよ日本中の労働者が思っていることだろう。「仕事超楽しい!超行きたい!」っていうメンタルをお持ちの方はこんなブログ読んでないでお仕事したほうが有意義に過ごせると思うので職場へUターンしといてください。

私は何か強い感情が沸き起こってきた時にそれに関連するワードをgoogleに入力して検索してしまうクセというか習性というかそういうものがある。現代っ子。休み終わりの月曜日、とんでもなく仕事に行きたくなかった私はいつもどおり「仕事 行きたくない」と検索した。ちなみに「仕事」の後に空白を開けると「辞めたい」「行きたくない」「辛い」というワードがサジェストされてきた。みんな考えることは同じだろうし大丈夫か現代人。するとこんなサイトがヒットした。

nolovenoteam.com

別にこのサイトからお金もらってるわけではないので安心していただきたい。こういう自己啓発系のサイトを見ると大抵「んなことできるわけねーだろタコ」とキレてしまいがちな私だが、なんだかこの記事は少しホッとさせられたのだ。「自分の人生や行動の主導権を自分に取り返す」という文言は「自分の行動は自分の意志で行われる」というなんとも「アタリマエ」な論理から外れ、私達に「他人のためばかりに行動していませんか?」と問いかけてくる。

だからといって独りよがりになりすぎてはどうしようもないわけだけどふと足が止まってしまった時に「自分」がどこに立っているのか、何を見ているのかを改めて見極めることは忘れがちだけど大切なことなんだろうなと思った次第。簡単に見つけられたら苦労はしないんだけどなあ・・・

「和解」の果てに?

ついこの間のわたし「やっぱり"物語"が合ったほうが面白いよなあ」

ごちうさを見る私「ああ…あ……あ(内部に現れる感情を表現できず言葉を失う)」

ご無沙汰しております。会社から休日を与えられた話は前回書いたと思うけれど、1週間ほど旅行に行っておりました。その直前、何やら愉快な宴が開かれるとのことでのこのこ出かけてまいりました。首謀者はこちら。

toudo-kougen.hatenablog.com

参加者は私と「対談相手」となる

sasamatsu.hatenablog.com

こちら。後観客に名乗りを上げたけったいな方3名にて横浜駅近くのとある個室あり居酒屋で魔宴と相成った。主催の意図は上に挙げた記事内に書いてあるけれど、このブログでも時折書いてきたように性行為、ないしはそこに関わる"女性"について私と笹松氏は対照的な意見を持っている(とされてきた)。ところが先月下旬突然に氏からなんともいえない「童貞力」が失われているという指摘が相次ぐようになりこのことをどう考えているか聞きたいということであった。主催者はかねてから私と笹松氏との掛け合いを見てみたいと言っていたし、TLを見るとそういう物好きな方は複数名いるらしい。というわけでご期待に応える形で遅刻をしながらも出席したのである。

会の内容そのものはid:toudokougen氏の記事を見て貰えれば概ね分かるはずなのでそちらを参照していただいて、結局私は何を言っていたのかということだけれど

  • どんな御託を並べても"ラブH"があればだいたい救われる
  • 「俺の知る笹松」を決めるのは視聴者であってそれは「笹松氏」本人を非難するのはお門違いだしむしろ「笹松語-セカンドシーズン-」を楽しめるようにした方が建設的

に集約することができるはずだ。前者については私は常々申し上げてきた通りだし、笹松氏も実際の経験の中で得心するところがあったこととなり、両者の間で認識に断絶があったHに至る過程と行為そのものは不可分だし行為そのもののにラブさえあれば大概の問題は解決するという点で両者の間で「和解」が生まれたことがこの会が「熊茸歴史的和解」と言われる所以である。

もう1点後者についてはどちらかと言えば我々笹松氏の「視聴者」に対しての考えである。凍土高原氏はしきりに「俺の知る笹松が変わった」というところを論点にしたがっていたように思えたが、そんなのは我々の勝手な思い込みにすぎないのであって私達はあくまで「Twitterで幼なじみ排卵日中出しラブHとかいう頭おかしいツイートばかりしている笹松しいたけ」という一面しか見ることができていない。それは「笹松氏本人」でもなんでもなく私達が創りだした「笹松しいたけ」に他ならない。情報を発信する本人はその日その時その状況で変化していくのは当たり前だし、その本人が発信している情報が変化していくのも当然である。その時にそれをどう受け止めるかというのは我々次第だが、ここで憤ってはそれこそしいたけ氏の手のひらの上で踊らされているのも同然ではないか。それは釈然としないだろう。どうせだったら「変化した新しい笹松しいたけ」がいかほどのものか考え、楽しんでやったもん勝ちだ。人生楽しくおいしく。

楽しみすぎると二日酔いで新幹線に乗れなくなるから適度に楽しむことが一番大事なんだなと痛感させられました。

目標や夢を持つこと

「いま私、少しだけ夢に近づきました!」

このセリフに泣いた人がどれだけいるだろうか。わからない人はSHIROBAKO見て、今すぐに。

SHIROBAKOは「アニメに関わりたい」という夢を持つ女の子たちの奮闘っぷりがこれでもかと描かれた作品だったけれど、「夢」や「目標」を持つというのは自分の「成長」にはとてつもなく大事なんだということは実にいろいろなところで言われている。短期的な目標を日々持ち続け、それを達成し続けることで少しずつ「成長」が続くというのは理解しやすいし、その積み重ねで「夢」の自己実現につなげることができれば大きく成長することができるだろう。

sasamatsu.hatenablog.com

「中長期的に豊かに暮らす」というのが「夢」だとすればそのためどうするかという「戦略」は日々目指すべき「目標」を示してくれるものだといえるだろう。

しかしSHIROBAKOの登場人物が皆眩しく見えてしまうように、「夢」を持つということは日常を生きる多くの人々にとっては難しい物になっているのかもしれない。明日自分の身が(とりあえず生きていたとしても)どうなるかわからない、ましてや年を取ったらどうなってしまうかもわからないけれどとりあえず仕事行かなきゃ、という世界で生き続けていれば「夢」もへったくれもあったもんではないだろう。しかし会社は「将来自分がなりたい姿を思い描け」と強いてくる。そうやって持たされたものは「夢」なのだろうか。

かくいう私も自分の「夢」がなんだったのか思い出せないくらいには擦れてしまっている。就職活動の時、ドヤ顔で面接で語っていた「目標」の達成に向けて自分では何をすべきなのかもよく分かっていない。目の前の仕事で完全に手一杯である。なるほどこうして「夢」への道を見失っていくのか。いっそ「夢」を持つのを止めてしまえばもう少し楽になるのだろうか。「夢」「目標」と今の自分との落差に奮起する人もいれば絶望して落ち込んでしまう人もいるだろう。私は後者だと思う。

しかし逃げてばかりもいられないし、逃げていては「ひとまず生活する」という「目標」も果たせなくなる。なるほどこれも「目標」には違いない。とりあえず生きる、お金がほしいという「目標」をとりあえず果たしながら自分をだましだまし生活している。

「少し高いところから遠くを見る時が来たんだよ」

前にも書いたこのロロのセリフが重くのしかかってくる。その時私にはなにが見えているのか。何か見えるのか。

今SHIROBAKO見返したら心臓発作で死ぬかもしれんね。