ある日森の中

ただただ適当に

日常系閑談(その1)

ここ数日下世話な記事ばっかりなので(それが求められているような気がしないでもない)今日はほんの少し真面目な記事を書こうと思います。

アニメやマンガの中で特にここ数年「日常系」と呼ばれるようなジャンルが非常に幅を利かせるようになっている。「日常系」そのものの定義というのはおそらく存在し得ない。似たような言葉で(狭い管見の限りでは)殆ど使用されることのない「空気系」というものもあり、こちらは学術的な場面で少しだけカテゴリとして扱われていたりする。インターネットで拾うことができる論文でそれとなし定義されているものを引いてくると

大きな事件や出来事が特に起きるわけではなく、登場人物たちの何気ない日常を描いてることが特徴的な傾向とされ

(広瀬正浩「『空気系』という名の檻-アニメ『けいおん!』と性をめぐる想像力-」 『言語と表現』第10巻, 2013, p.7

http://ir.lib.sugiyama-u.ac.jp/dspace/handle/123456789/857)

 とまあこんな感じである。これに異を唱える人はそこまでいないと思う。一方でこうした日常系アニメの原作供給元として強大な力を持つ芳文社のコミックスは「ドキドキ★ビジュアルコミックス」(まんがタイムきららWeb)と謳われて販売されている。コレに対してツッコミを入れるのも野暮なもんだが「ドキドキさせてくれんのかよ」というのが正直な思いであり、今まで芳文社原作のアニメを見ていてドキドキした記憶があまり無いのも事実である(個人的な感想です)。

特に大きな出来事も無いのに「ドキドキ」させてくれるかどうかは作者の力量次第だろうから置いておくとして、なぜここまで日常系が我々オタクの支持を受けるところになったのか、というのは個人的にはずっと気になっている。

「日常系」の対義語というか、ゼロ年代前半のアニメやマンガの一翼を担ってきたジャンルとして「セカイ系」というものが存在する。いわゆる「君と僕との愛が世界を救う」みたいな内容のものである。「セカイ系」もなんだか意義するところがよく分からないふんわりした内容のものであるから私もきちんと理解できていない(というか「セカイ系」の代表とされる作品を読んでいないのも大問題)ですけどそれを問いかけたいわけではないからこれは置いておいて、とにかく「セカイ系」の物語には「世界に起こる大問題」というのが物語の前提として欠かせない。

そういった意味で「涼宮ハルヒ」シリーズは「セカイ系」と「日常系」をつなぐ架け橋だったのかなあ、という仮説を私は持っている。アニメ一期が放映されたのは2006年、「日常系」の大きな祖の1つであろう「らき☆すた」のアニメ放映は2007年。この頃になんらかの変化が始まってきたというのはあくまで自分の中だけであるが確信している。ちなみに「日常系」の本山、芳文社の大ヒットマンガ「ひだまりスケッチ」が初めてアニメ化されたのも2007年である。

とにかく90年代後半からゼロ年代初頭まで牽引してきた「セカイ系」がその姿を潜め、(おそらく)2007年以降に急速に前景化してきた「日常系」というジャンルは物語に大した背景が存在しない、というのがとにかく特徴である。こうした背景が存在しないというのは一見「何も考えないで済む」という非常に受動的な視聴スタイルに収斂してしまいそうである。確かに私も基本的に頭のスイッチを切って見れるアニメは非常に重宝していた。

しかし実際のところそういった受動的な視聴スタイルに終始する人ばかりでなかった、というのが現実だった。巷には様々な考察があふれ、アニメの世界と現実とを結びつけて考えようとする「聖地巡礼」も盛んになった(こう書くのもなんだか語弊があるような気がする)。この「考察の余地」というのがオタクに受けたのではないかというのがこれを書いていてふと思ったことだ。

書いていて少し疲れてきたので今日はここまでにして続きは明日以降書きます。