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ある日森の中

ただただ適当に

日常系閑談(その2)

昨日の続き。

「日常系アニメ」は何も考えないで見ることができそうで実はそうじゃないんじゃ、というのが昨日の記事の終わりでしたね。

90年代中頃からオタクの人権を声高に主張してきた岡田斗司夫を始め、オタク研究をしてきた人々はオタクは能動的にアニメやマンガを受容しているということにとても価値を置いてきた。今なおおいている人もいるだろう。つまり自らの意志を持って好きなモノを定め、積極的に視聴行動を取ることが「オタク」であることにおいて重要だったのだ。そう捉えると確かに「日常系アニメ」において何も考えていない(ように見える)オタクは既に彼らが理想視してきた「オタク」では無い。だから「オタクは死んだ」と思えるのだろう(Amazon.co.jp: オタクはすでに死んでいる (新潮新書): 岡田 斗司夫: 本)。

ところが実際のところ、「考える」オタクはそれなりにいる。私のタイムラインにはアニメに登場した自動改札機について延々実際のものとの比較を語っている人もいるし、前回の記事にも書いた聖地巡礼をすることで「ストーリーとリンク」しようとする人も多い。

「日常系アニメ」の視聴において重要なのはその考察の対象が直接的な物語の背景を必ずしも必要としない、という点であると私は思っている。それが先の記事で「勝手に考える」と書いた部分の意味だった。実際自動改札機はアニメの中で登場人物達が通過する一オブジェクトにしか過ぎないわけだし、聖地巡礼の対象となる「背景」であったとしてもそれは「物語」をそこへ行く主体としての「私」が思い出すための鍵でしかない。そこに行ったからといって「物語とリンクする」わけではなく「物語とリンクしたように思える(あるいは思わされている)」だけにすぎない、と個人的には思っている。

それ自体の是非を問いたいわけではないのでそれくらいで置いておくとして、このように物語全体を覆う大きなバックボーンが特にあるわけでもない「日常系アニメ」は自由に物事を考えられるのが非常に有用だった、というのがヒットの大きな理由なのではないだおるか。そしてそれはアニメを見ることが「議論の対象」から「コミュニケーションツールそのもの」へと転換しつつあることも示しているようにも思えるのだ。

SNSでの実況やそもそもニコニコ動画でアニメ見れるようになった今では、アニメは画面と自分の一対一ではなく同時間軸で一(映像)対多(視聴者)という関係性の中に置かれている。その中では刹那的に(あるいは一定程度の時間の中で)視聴者間でコミュニケーションが発生する。この素材となるのは当然そのアニメであるのだけれど、アニメを視聴しながら刹那的にコミュニケーションを取るのならば複雑なストーリーよりかはスポット的な要素、例えば登場人物同士の顕著な関係性(百合、┌(┌^o^)┐ホモォ...etc..)、キャラ性、背景などの方が前景化しやすいのではなかろうか。そしてそのうち物語とは遊離して辿り着くのが「あぁ^~心がぴょんぴょんするんじゃぁ^~」だったのではないだろうか。これの派生系として話よりかはキャラクターを演じる声優の方に興味が向いていくとかそういうのにつながっていくのかもしれない。そして話はDDへとつながっていく・・・

そのつながりはまた置いておいて、日常系アニメがなぜオタクに受けたのかというのに今の段階で答えるとするならばアニメを視聴することそのものがコミュニケーションツールとして成り立ってしまうような状況の中で素材を豊富に与えてくれる≒好き勝手に考えさせてくれる「日常系アニメ」は格好の一次作品であったから、という仮説を自分の中で立てておきたい。

これは別にアニメオタクに限った話ではなくて、コミュニケーションの素材としてではなくコミュニケーションそのものとしてメディアがある、というのはいろんなところで話がされていた気がするのでその流れの中にオタクと日常系アニメという関係性を置いてみただけである。これについては引き続きのんのんびよりとか見ながら考えてみたいテーマである。

ちなみに今回と前回の記事は別に作品論でもなんでもないので「オタクだって日常系アニメ以外のアニメ見るし!好きだし!」とか言われても困ってしまうだけなのであしからず。