ある日森の中

ただただ適当に

恋に恋する森のくま

昨日はネタ切れという悲しみに包まれてしまったのですけど今日は思いついたので。今日もそうなんですが割とネタを風呂で思いつくことが多いです。アルキメデスの頃から風呂はヒラメキの源泉。お風呂すき。

さて、今日はタイトルにもあるように恋、というか恋することについてのお話。最近ずっとやかましく言ってるけれど私は恋に飢えている。アニメ、マンガ、ラノベ・・・しかしそれはあくまでもフィクションとしての恋だ。この辺は後述する。とにかくこの状態を指す「恋に恋する」という言葉は本当にハマっているなあ自分でも思う。

とにもかくにも私は「恋をする」という行為そのものについて非常に憧れに近い感情を持っているようだ。以前記事で疑義を呈する、と書かせていただいた某氏は

sasamatsu.hatenablog.com

この記事で「-救済--承認--許諾--信頼-とかそういう部分に価値が有るのであって」と書いている。どうでもいいけどこれも風呂の話だな・・・個室付特殊浴場の話だけど。まあとにかくこれは性行為に求める過程の話であるが、私の言う「恋」の射程は別に性行為のみを包含するわけではない。とはいえ承認やら信頼やらそういった諸々のやりとりを求めている、という点では共通していると言えるだろう。

しかし御存知の通り現実の私は恋愛らしい恋愛もせずにここまで生きてきている。遠い彼方、小学生まで遡ればクラスに好きな女の子もいたような記憶もあるのだけど中高男子校という暗黒時代を越えて「異性を好きになる」という感情をどこかに置いてきてしまったかのように恋が出来ない、というか忘れてしまった。希望を託した大学時代、特にそういう感情を抱くこともなかった。

これはなぜなのか。単純に言えば怖いのだろう。自分が「恋をする」ために乗り越えなければならない壁はいくつもある。告白する、という行為そのものが絶大な勇気を必要とするだろう。成就したとしても人同士の付き合いである。全てが順風満帆にいくわけがない。諍いもあるだろう。とにもかくにも拒絶されることが恐ろしいメンタリティを持つ私にとってはなかなかにして耐え難い。

しかし一方で「恋に恋する」私は現実に存在している。そんな私を支えてきたのはフィクションの世界だったのかもしれない。フィクションの中の世界では登場人物達が悩み、苦しみ、救われていた。そんな姿に自分を(勝手に)重ねあわせていくことで自分が真剣に苦しむこともなく恋にまつわる「いいところ」だけを味わうことができたのではないか。以前読んだとある本に、先日書いた「日常系」の作品について「日常系」の作中で描かれる「日常」は現実世界を生きる人々からすれば究極のフィクションであって、だからこそヒットする余地があるという論考があった。これに引き寄せれば自分の世界から距離を取られたフィクションだからこそ「描かれた」恋愛にとてつもなく惹かれていったのではないだろうか。書いてて辛くなってきた。

かくして私は今日も恋に恋する人(熊)として、ドキドキを求めて世界をうろつくのだ。