ある日森の中

ただただ適当に

サケドル活動

仕事終わりのいささかボーッとする頭を叩き起こしながら昨日の続きを書くことにする。ねむい。

昨日は地元で所帯を持つという壮大な(?)目標に挑戦する同期が「羨ましい」と思えてしまうのは「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」というものが関わっているのかもしれない、というところまで書いた。最初に断っておきたいのはこれは別にこのイデオロギーの是非を問うわけではない(婉曲的に問うてるかもしれないし、否定的な考えを持っているのもまた事実だけれど)し、ましてや鮭活そのものの善悪や是非を問うてるわけでは無い、ということだ。あくまで「なぜそうすることがアタリマエのように思えるのか」というところに疑問を感じるのである。

少し前とあるテレビ番組を見ていて、ある出演者が一人でパワースポットをめぐることが趣味ということを言っていた。「一人だと楽だし好きなだけ没頭できるからよい」というようなことも言っていた。そう、一人は楽なのである。誰かと一緒にいるということはどうしても感情のやり取りが発生してくるし、うまくいかないことも当然あるだろう。何をするにしても一人でできるのであればそれに越したことはないのだ。もちろん世の中にはみんなと一緒に何かをすることが楽しい、という人もたくさんいる。「仲間」と「彼氏/彼女」は違うのかというのも議論がいるが、おそらく付き合うという過程の中では「みんなと一緒」と「あなたと一緒」というのは求められる気の振り方の密度が違うのだと思うし、常に一緒では疲れるのではないかと思う。残念ながら私は想像しかできない。つらい。

ちなみに先ほどの番組はパワースポット巡りが趣味の出演者が好きになった人に告白をしてフラれるというところまでセットだったのだが、その理由が「一緒の時間が取れないと嫌」というものだったと記憶している。これもまた妙な話である。恋人というのは「基本的に一緒」にいなければならないものなのだろうか。別に一人の時間が取りたきゃ取ったっていいじゃないか。ところが実際私達は意識しているのか無意識なのか恋人、ないしは夫婦というものは「大体一緒」に行動し、思考することが望ましいと思ってしまいがちだと思う。私もついつい思ってしまう。

男女が大体一緒に添い遂げるべきなんだ、というのは「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の一つの核になる考え方だと思っているけれど、これは近代西洋社会の中で構築されてきた考え方だし、日本にだって明治以降に流入し広まった考え方でもある。冒頭で述べたように別にこうした考え方そのものの是非を問いたいわけではない。しかし大事なのは今「アタリマエ」と思っていることの根拠なんていうのは予想以上に最近組み立てられてきたものだし。結構根拠は薄弱だったりするよ、ということだ。

最近は単身世帯の増加が"問題"になっている。確かに少子化になってしまえば国家運営的に問題が多数噴出することが必至だし対策は取らなければいけないけれど、だからといって「早く結婚して子供作れや」という圧力が(国家ではないにしろ周囲から)かかるという状況はおかしいのではないかと思っている。結婚したけりゃするし子供作りたきゃ作る、くらいのスタンスで生きられるなら生きやすいと思うのだけど。それを困難にする「アタリマエ」なんぞ無くなってしまえばいい、というのが私の持論である。

いささか筆が走りすぎた感じがするけれども、私自身は結婚願望ございますし人から「いいお父さんっぽい」と言われたこともあるのでなんとかしていきたいというのが紛うことなき本音ということだけ付記しておく。