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ある日森の中

ただただ適当に

過去とつかめないものと私

私は知り合いの間で比較的古いモノ好きで名が通っている。建物もそう、鉄道もそう、好きな時代は80年代である(80年代を古いというかは意見が別れるところだ)。80年代のバブルほどではないけれどどことなく浮かれた明るいバカっぽさがたまらない。あ、でも女の子は若い子がいい。

少し前に書いたカラオケについてもそうで、私が歌うのは今のアニソンもそうなのだが90年代の小さい頃に見ていたアニメの曲や70~90年代の邦楽がとても多い。実際にあった人ならわかると思うが、ただでさえ見た目が老けこんで見えるのにこんな趣味をしているせいで人と一緒にカラオケに行くとその都度私が20代前半であることが信じてもらえなくなっていく。

しかし私はなぜこんなにも「懐古趣味」になっているのかとふと考えることがある。youtubeとかを使って私の懐古欲求を満たす動画を見るのは日常茶飯事であるけれど、比較的その欲求が強まるのが精神的に落ち込んでいる時だというのに最近気がついた。もちろん「懐古趣味」を持っているから趣味を通じて癒やしを求めていると考える事ができるし、むしろそのほうが妥当している気がするけれど自分的には違う要因があるような気がしてならない。

それは「懐古趣味」の根本にもあるような「ないものねだり」に起因していると思うのだ。あの歌が流行った時、あの車両が走っていた時、あの番組が放送されていた時、私は"そこ"にはいない。けれど映像を見ることで"追体験"する(映像を見ることで追体験できるというのも妙な話だが。実はこのネタ卒論に使ったのだけど)ことでその"場"にいたかのように思える。それは「自分が得られなかったものを得た(ような空想)」感覚を与えてくれる。だから楽しいし、達成感もあるし、一種の征服感のようなものを満たしているのかもしれない。精神的に弱っている時、そうすることで自分の心を支えているのかもしれないというのがなんとなくの結論である。

これは多分自分が"経験"したことにも言えて、あの時自分が見ていたモノ、体験していたコトを今改めて見ることで当時の自分が得ていなかった視線で見ることで一種の征服感を満たしているのかもしれないし、今の自分に無いものを過去の自分に投影しているのかもしれない。そういう意味で一種の「現実逃避」なんだろうなと思う。

現実逃避してえ・・・