ある日森の中

ただただ適当に

贈り贈られ

このブログに度々登場し、私から出演料をせびり取ろうとする大学の同期がまもなく誕生日を迎える。めでたいってもんで贈り物を贈ることにした。普通に役立つものをあげても仕方がないからろくでもないものを贈った、というか先ほどAmazonでポチってきた。ギフトラッピングもしてくれるから便利である。こんなところで私信なんて書いてもしょうがないのだが心当たりの人は覚悟して待っていて欲しい。砂1トンではないのでそこは安心してね。

さて、実は先日職場でも同期が誕生日を迎えた。あんまり詳しいことを書くといろいろまずいのだがそんなに仲がいいわけでも残念ながら無い。そんな人に贈る贈り物を考えるということはなかなかにして苦痛であるなあというのを改めて実感した。そもそも贈らなければならないのかというところからして疑問であったのだがそこは「空気」が許してくれなかった。「空気」についてもずっと私はなんとなく考え続けてるんでまとまったらまとめて何か書きたい。

それは置いておいて職場に贈り物、というか何かを買っていくというのは非常にポピュラーな文化だと思う。どこかに行ったらお土産を買って帰るのはもはや定番だし、東海道新幹線に京都から乗り込むサラリーマンの半分くらいは井筒の生八ツ橋夕子とかのちょっと不気味な袋を下げているだろう。ちなみに私は京都に行ったら98%生八ツ橋を買って帰る。生まれて初めて生八ツ橋を食べた時からその食感が忘れられないのだ。「生八ツ橋 感触」でググると大変な検索結果が出てくるけれど本当にやましい意味があって買ってるわけではないのだ。小学生の頃から生八ツ橋が好きでたまらないのである。

また脱線してしまった。土産物を旅行先で買ってくる、というのは当たり前だが「私は○○へ行ってきました」というアピールに他ならない。

帰宅後観光経験をものがたる「よすが」となるのが「みやげもの」である。観光経験を表象する何らかの事物が「みやげもの」である。-(中略)-人は目に見え触れることができる事物とそれが位置する「全体」とをつなげようとするとき、「ものがたり」を必要とする。貝殻や石の欠けらを観光みやげとして持ち帰ってもそれだけでは事物のままであるが、人はそれを「ものがたり」と結びつける。はじめての一人旅、最後の旅、記念の旅行、感銘を受けた出会いなどの「ものがたり」をそれに結びつける。その「ものがたり」をひもとくための装置として貝殻や石の破片を手にとる。それが「みやげもの」である。(橋本和也『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』世界思想社, 2011, p.5) 

 確かに我が家に持って返ってきた生八ツ橋も要素に分解してみれば「ただのなんだか柔らかいあんこの入った和菓子」くらいの存在である。それを彩るのは「枯山水の庭園が綺麗だった」「外国人だらけだった」「修学旅行の学生とかちあった」「市バスに乗って興奮した」みたいな京都の「思い出」である。食べながらそれを思い出すのはまた一興である。

しかし職場に土産物を持ち帰るとなると、「思い出」だけでは食っていけない部分が表面化してくる。いくら「思い出」が詰まっていても貝殻や石の欠片を職場で配り歩いたら変人認定間違いなしなのである。摩周湖の霧とか論外である。ということは職場に持ち帰る土産物は「(ある場所に行ったという)適切なメッセージを適切な場面で適切に伝えられる」ものを買って帰るというミッションを果たしてくれるものでなければならない。どんなお土産を買って持ち帰り、どういったタイミングでどういうお土産をどういう風に渡すかというところまで考慮してKIOSKで悩まなければならないのである。だとすればこれはもうとてつもなく戦略的な行為なのではないだろうか。どういうお土産を作ってどう売り込むかみたいなのは考えるけど買ったお土産をどう渡すか、そもそもなぜ渡すか、についてはあんまり目が当てられてなかったのではないか(考えても意味が無い、というのはある)。そんな論考があったらご連絡ください。

こう見えて大学では"コミュニケーション"とかそういうものを扱うゼミに居たのだけど、2年間学んだ結果"コミュニケーション"なるものは皆が思ってるよりもあやふやだしただ「伝え伝えられる」というモデルでは語り得ないものなんだよということくらいしか分からなかった。土産物、というのもそんな底なし沼のような「コミュニケーション」の渕に引っかかっているのかもしれない。