ある日森の中

ただただ適当に

オタクのぼくらは何を消費するか

notoya.hatenablog.com

この記事の一番最後、アニメの視聴方法が「日常系」アニメに対してなんとなく感じる違和感というかそういうものにつながっているのではないかという意見を見て得心するところがあった。

「日常系アニメ」はこのブログでも以前書いたように大きな敵に立ち向かうとかそういう「物語」がはっきりしていない、ないしは存在しないようなアニメだ。「映像」においては登場人物達の「日常的」な会話、感情のやり取りが大きな要素を占める。これが「日常系アニメ」が原作としての「マンガ」そしてその映像化としての「アニメ」という形態によってこそ可能になっているということをとりあえず最初に書きたい。

少し話題が変わってしまうのだが、なんだかんだ言いながら最近はニコニコしながらラノベを読んでいる。読みながらなんとなく冒頭の記事を思い浮かべつつ、「やっぱり『物語』が背景に存在している方が作品として入れ込みやすいのだろうか」と考えていた。ラノベは「ノベル」である以上、日常的なやり取りや本当に機微な表情変化で伝えられる感情の動きが伝えにくい(イラストは入っているにせよ)。もちろんだからこその持ち味があるけれども、いわゆる「日常系アニメ」を本当に"そのまま"文字化したら果たして私はニコニコしながら読めるのかというのは留保がつくようにも思えてしまう。だからGJ部ってすごいと思う。

その点マンガやアニメはイラスト、そしてそれが動くアニメーションという視覚への訴えかけが極めて重要であり、だからこそ作品の魅力が活かされるしそこにうまく嵌めこむことができたからこそ今日の隆盛があるのだろう。

ここで一つ気になるのは「物語」はどこへ行ったのかという話だ。完全にうろ覚えで申し訳ないのだが、いわゆる「オタク」に関する論客で参照されることの多い大塚英志はオタクはアニメとかマンガの背景にある「物語」を消費する生き物であり(大塚は二次創作を注目していた気がする)、その点当時(80年代)の新人類とそんなに差はないという「物語消費」を重視した。これを受けて東浩紀は2000年に「オタクは第三世代に入った」として、既に物語の背景にある「物語」はどうでもよくなり、ストーリーの中に埋め込まれた「萌え要素」を視聴者が読み取って消費していくと指摘した。作品を「要素のデータベース」として捉える「データベース型消費」である。

大塚の論、東の論、どちらも読んだときは「なるほどなあ」と思ったわけだが、「日常系アニメ」を見る時、私も含めて何を消費しているのか。強いて言えばデータベースなのかもしれないがどうにもしっくりこない。この違和感に対する自分なりの1つの答えが前に書いた「コミュニケーション素材」だったのだがこれもしっくり来ていない。おそらく各種様々な消費を「つまみ食い」的に、かつオーバーラップさせながら視聴しているという状態が我々にとって「当たり前」になっているのだろうというのが当座の答えだがやはりモヤモヤするもんでちょっと時間をかけて考えていきたい。

女の子がキャッキャウフフするのはある程度受けるけど男の子がガハハするのは「男子高校生の日常」以外どうにもピンと来ないのはなぜなんだろうね。