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ある日森の中

ただただ適当に

私の興味の在処

このブログでは私が時折考えていること、興味をもったことをつらつらと書いてきた。今回は軽くそれをまとめてみたいと思う。

大学時代、私は大きな括りでいうところの「社会心理学」を扱うゼミに所属していた。この話を人にすると高確率で「すごい!人の心が分かるんだね!」という返答が飛んでくるのだが、大学(院)で「心理学」を学んでいる人にこの言葉を投げつけるとこれまた高確率で内心怒りを買っているのでこのブログを読んでいる皆様においてはぜひこうした言葉をかけないでいただきたい。人の心がそんな簡単に分かってたまるか、という話である。

で、社会心理学とは何なのかというのを私なりの理解の下で説明するならば、人間という「社会」を作って普段生活する生物がどう人間同士、あるいは「社会」とやり取りをすることで日々生きているかを研究するものだと思う。その調べ方こそ多種多様であるけれど、私の所属していたゼミは比較的オーソドックスな多くのサンプルに対して実験をしてデータを集めるようなやり方ではなく、少数のサンプルを深堀りしていくような考え方をしていました。

大学に入って「社会心理学」という学問領域に出会ったのだが、これがどうにも私には魅力的に映ってしまった。というわけで2年間教授の下でその一端に触れていたわけだが、これがなかなか大変で特に卒論執筆時にはかなりナーバスになるくらいであった。とはいえとりあえずやりきって卒業するまで私をつなぎとめていたのは「人」への興味だった。

どうにも私は「人」という存在が好きらしいのだ。でもそれは世間一般にいう「人好き」ではなく(残念ながら私は人との会話が苦手である)、あくまで思考の対象としての「人」である。例えば私は卒論のテーマに「聖地巡礼」というものを据えた。伊勢神宮とか熊野三山とかの宗教的なものではなく、アニメやマンガの舞台をめぐる「聖地巡礼」だ。社会心理学と何の関係が、と思われるだろうが無理くり結びつけた。卒論で私が最終的に書いたのは「聖地巡礼」そのものを追いかけるよりも、それを行う人々がどのように「聖地巡礼」を経験しているのかを考えたほうが発展の余地がある、ということだった。実際の場所というものと「アニメ」の中の風景が勝手に重ねられていくというものの見方が興味深いのではないかという話だ。

以前した日常系アニメの話、ライトノベルの話もそのジャンルそのもの構造とかよりかは最近は「それを消費する人々」がどう受け止めているかを考えるほうに興味が傾いてきている。生来の尻の重さから動き出しては居ないけれど近くの図書館に参考になりそうな本はいくつか入っているようなのでまずはそれを読むところからスタートしていきたいなというのが今日1つ歳を重ねた私の心境である。

天狗は狸に説教を垂れ、狸は人間を化かし、人間は天狗を畏れ敬う。天狗は人間を拐かし、人間は狸を鍋にして、狸は天狗を罠にかける。

 そうやってぐるぐる車輪は廻る。

 廻る車輪を眺めているのが、どんなことより面白い。

(森見登美彦『有頂天家族』幻冬舎, 2010, p.9-10)

この世の天狗と狸の動きを見ることがかなわないのが惜しいが、世界を回す車輪の一部となった人間はかくも私の興味を引き続けるのである。

下鴨神社に住み着く狸になって偽叡山電車で洛中を走り回りてえ・・・