ある日森の中

ただただ適当に

あの日

いつの間にか1月も空いていた。思い返すと本当に何もする気が起きていなかったので精神的に少しダウナーだったのかもしれない。

sasamatsu.hatenablog.com

この記事を読むまでも無いのだが今日は5年前、2011年にいわゆる「東日本大震災」が発生した日である。もう5年も経ったのかと思えば時の流れの早さに改めて驚かされる。

3月11日と言えば前日は大体国立大学の前期試験合格発表の日である。最近はズレてたりするけれども。そして私の高校は3月10日が創立者の記念日だかなんだかで絶対卒業式なのである。国立大学受験者は非常にやきもきした気持ちで卒業式を迎えるのだが、かくいう私もそのうちの一人だった。センター試験が比較的無難な結果で終わり、2次試験の受験後感も思ってた以上に良く*1、どことなく余裕をぶっこいていた。しかし現実は厳しく合格者一覧に私の受験番号は無かった。不合格である。

この段階で私は既に合格していた第二志望くらいだった大学に進学を決意していたが、後期試験も申し込んでいたいたため、半ば諦めた気持ちで過去問と向き合うこととなった。3月12日が試験、ということでゆるゆると昼過ぎに起きながらも赤本を開き英文に目を通し始めた時、部屋がミシミシ音を立てだした。地震だと思い顔を上げた瞬間、これまでに経験したことのない横揺れが部屋を襲った。私は幼い頃から災害やら事故やらのドキュメンタリーやら図鑑やらを読み漁るけったいな子供だったため、大きな地震だと関知した瞬間に玄関に走り、ドアを開けて出口を確保した。外を見れば工事用の仮設足場も激しく音を発てている。現実を受け止める事ができず、ドアを開けた状態で固まっていると家の中から母が「早く隠れな!」と呼ぶ声がした。その声で我に返り、寝室の布団の中に潜り込んで長く続く揺れが収まるのを待った。

最初は東海地震が来たのかと思っていたのだが、揺れが収まってテレビをつけると東北で震度6強(後に7と変わった)、居住地域は震度5弱という速報が流れていた。そして現れる震源の深さ10km、マグニチュード7.8*2という脅威の数字。直感的に津波が…と思った瞬間にはテレビに大津波警報の情報が現れ始めた。テレビの日本地図の海岸線全体がほぼ赤線か黄色線に覆われて、市の防災無線も海岸から離れるようにアナウンスが始まった。そしてそこからNHKから完全に目が離せなくなってしまった。

さすがにその日は余震に怯えながら寝た記憶がある。翌日、後期試験は1週間延期となり、その試験も無くなり、なぜかそこの大学に拾われて4年過ごして今ここに私はいる。

その大学に行かなければ無かった出会いはたくさんあった。今ここにいる私はあの日を過ぎても概ねいつも通りの1日1日を過ごすことが出来てここまで来れた。そのことには感謝しなければならないし、これからもそうであることを願うばかりだ。また5年という月日の中で甚大な被害を受けた地域もかなり前に進んできているようにも思える。ようやく2019年には常磐線が復旧する、という報道も先日あったばかりだ。震災以前に戻ることは絶対にできない、と私は思っているが震災以後、「いつも通りの生活」をすることができなかった人たちが「いつも通りの生活」をすることができるようになることをただ祈っている。

生きてるだけでまるもうけ。

*1:この感覚がまったくもって役に立たないのはご存知の通りである

*2:この後どんどんマグニチュードの数字が大きくなっていくのは恐怖以外の何物でもなかった