ある日森の中

ただただ適当に

休む、とは

先日大学を卒業して地元に戻った先輩が東京に遊びに来る、というので顔を出してきた。会って軽くお茶をしてから焼肉をしてきた。平日休みの日に呑むビールは最高…というのは別に主題ではない。

互いに一応社会人として生活をしている者同士、酒を飲みながらする話といえば仕事とかの愚痴になるのは畢竟である。そんな中、「仕事で疲れ切ってしまって休みの日も何もすることなく過ごしてしまってダメだ」という話が出た。

kuma-rapidexp.hatenablog.com

休みの日の過ごし方についてはこんな記事も書いている。この記事の中で私は「休みの日は『有意義』に過ごさなければならないという脅迫感」について触れている。実は今日も私は休み、というか3連休を頂いてうち2日を旅行に費やし、今日は家に居たわけだがさすがに疲れが出たのか昼過ぎまで布団から出ることができなかった。起きたら昼が過ぎてる絶望感というのはなんともいえないものである。

しかしよく考えてみれば不思議なものである。休日、というものは労働とかそれに類するものに対置されるのであって、そういった日常生活の疲れを癒やすために存在するはずのものである。一応労働基準法によって労働者に対して休日が与えられることは規定されている*1。だとすれば長時間寝て、昼過ぎとか下手すれば夕方に起きるような休日の過ごし方というのは極めて"有用"ではないだろうか。

しかし世間的に見てどうやらそうではないらしい。冒頭で言ったように「寝て過ごして無駄にした」絶望感というのは多く語られるものであるし、googleで「休日 無駄」と検索するとそのような生活をしてしまった後悔とそれの対策について書かれたサイトが非常に多くひっかかる。どうやら日常生活で溜まるストレスを休日に発散することがストレスマネジメントとしては重要だということらしい。

寝れば肉体的ストレスは概ね解消されるだろうからここで言うストレスは精神的ストレスが中心になる。精神的ストレスの発散方法としては色々なものがある。運動、風呂、カラオケ、睡眠、趣味に没頭…とりあえずこういった活動を休日に行えば仕事に対する活力が生まれて圧倒的成長、ということらしい。

私も出不精でありながら旅行が趣味という矛盾を抱えながら、なんやかんやいいつつ休日には旅行に出かけている。旅行に行くことが肉体的ストレスになりかねない問題はあるが、自分の見知らぬ土地に行ってものを考えるというのは精神的ストレスの消化方法としては十分有用だろう。趣味というのは偉大である。幸いにして私にはいくつか趣味があるからそのどれかによって日常生活の辛さから逃避することは大体可能である。

じゃあ何らかの趣味をする日を全ての休日にはめ込めばいいのか、となれば実際のところはそうではない。仕事をしながら次の休日にはこんなことをしよう、と思っていたって休日が来てみればやる気が起こらないという日が非常に多くやってくる。そこで冒頭のような罪悪感が生まれるのである。休みなのにストレス解消ができていない(ように思えてしまう)のは休日を無駄にしてしまったのだ。これが「何もしていない」「やる気が起きない」ことに対する罪悪感の背景なのだろう。

趣味をするにしたってストレスとは切り離せない。旅行に行くにしたってお金を使ってしまうということがストレスになりかねない。

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ラーメンズだって言っている。

こうなるともう八方塞がりだ。何かしようとすれば結局ストレスとは切り離せないしストレス解消なんていう綺麗事を休日にしようなんて考えるから辛いのだ。最初からハードルなんて上げない方がいいのかもしれない。

「なあ、『転がらない石に苔はつかない』という言葉を知ってる?

「知ってます」

「つまり、そういうことなんだ。分かるだろ?」

「……もっと苔をつけて、やはらかくなります」

「おいおい、お地蔵さんじゃないんだから」

森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』朝日新聞出版, 2016, p.45-46 

 休日になにもしないことに心血を注ぐ主人公と、対照的に休日にどれだけの予定を詰め込むのかを常々考えている先輩との会話である。これくらいの心意気でいれば気も楽になるのではないか。苔をつけよう。

*1:ちなみに休日の意義みたいなものが書いてあるかと思ったが書いていなかった。憲法25条あたりが根拠だろうか