ある日森の中

ただただ適当に

さんぱつ

notoya.hatenablog.com

この記事を読んで、思い出したことがあるので私も散髪のことを書こうと思う。

私も親譲りの視力の悪さでメガネを欠かすことができない。となると髪を切るときには当然メガネを外すことが求められる。となると本が読めない…となりそうだが実はそうでなかったという話。

幼い頃、私は母親も子供の頃からお世話になっていた美容院*1を使っていた。席についてメガネを外し、洗髪をしてもらう。この時も面白いもので私の頭を流してくれるのはいつも決まって店主の娘さんであった。というのも幼い私が「やっぱり若いネーチャンに洗ってもらうと手がスベスベで気持ちよい」みたいなことを言ったからである。発想がおっさん。

そして洗髪を終えてカット台につく。メガネを外しているから何も見えないが、幼い私は(今でもそうであるのだが)落ち着きがないから何かすることはないかとソワソワする。おしゃべりも止まらないのだがつまらなくなってくると手元に本を求めるようになった。イマドキの美容室だったら適当に客層を見繕って「コレ読まれますか?」と雑誌を何冊か持ってきてくれたりするが、そんなサービスはなかったので手近な本を手に取るのである。

町の古い美容院の鏡の下には何が置いてあるか、そう女性週刊誌である。幼い頃から本を読み、漢字もそこそこに読めてしまった私は女性週刊誌を食い入るように読んでしまったのである。大体読むのは読者投稿欄で、他人の家庭や人付き合いのいざこざを見て楽しむ子どもになってしまった。生き方を間違えている。

その美容院には中学を卒業するくらいまでお世話になっていたのだが、小学校高学年くらいから行くたびに「○○くんはこれだったよね」と女性週刊誌を手元に持ってきてくれるようになった。過剰サービスである。高校生になって少し洒落っ気を出して近くの別の"イマドキ"美容院に通い始めてからは当然女性週刊誌を持ってきてくれないので読む習慣もなくなってしまった*2

最近は時間もなくQBハウスあたりに通うことが増えたのだが、そろそろ美容院通いに戻そうかと思っている。散髪のときに女性週刊誌に頼らず、小粋な会話が二三できる男になっていたいものである。

*1:と言いつつも「ビューティーサロン」的な手合のものである

*2:とはいえ今でも医者の待合室とかで開くことはある

バブみの話

今この記事を書く直前に、自分のTwitterのタイムラインを見るとなぜか飲シャン*1の話になっていて、その中で「シャンプーを飲むよりおっぱい飲みたい」というのがあった。一見シャンプーを飲むよりまともに思えるがこれも相当"キテる"意見だというのに気づくのに時間がかかるくらい私のTLは"キテる"。

 

で、おっぱいとなるとオタク関連ワードでアツい*2「バブみ」というワードがある。キャラクター(ないしはそれを演じる声優)に対して母性のようなものを感じ、そこから更に己を幼児退行させてしまうような感覚を指している。「バブみを感じてオギャる」というように使うが書いててよくわからなくなってくる。母性、ということで比較的年長タイプのキャラクターに対して使われることが多い…

www.pixiv.net

バブみの参考例(cv.茅野愛衣)

かと思いきやとんでもなく低年齢のキャラに対して感じることもあるらしい。

www.pixiv.net

アイドルマスターシンデレラガールズから赤城みりあちゃん、11歳。小学生である。Pixivで「バブみ」と検索すると赤城みりあ、艦これの雷あたりがかなりヒットする。世話焼きキャラというのだろうか、そういう手合に対して思い切り甘えたいという需要が顕在化しているようである。

この「バブみ」について少し前、「10年くらいのオタクは『俺の嫁』とか言って養ってやる!くらいの気概があったけど今のオタクは『バブみを感じてオギャりたい』とか甘えるようになってるの、キャラに対する執着が薄いのでは」みたいなツイートが出回っていた(というか確認してみたら現在進行系で出回ってる)。確かに「嫁」という婚姻関係を想定させるような語法は家族制度的には「強い」父性を感じ、極めてキャラクターとの積極的な関係構築に対する欲求を感じる。一方でキャラクターを「母」と想定し、自身を「子ども」と置いて親子関係の中に置こうとする「バブみ」は「父」との比較軸の中では極めて「弱い」存在と言えるかもしれない。

しかし本当にオタクの執着は弱くなったのか。私はむしろ自分を「子ども」という弱者側に置くことによってキャラに対する独占、言うなれば依存は「俺の嫁」時代より強まているのではないか、と考えている。「父」という言うなれば支配者から「子ども」という被支配者へ自己投影を変化させたのは確かに景気の悪化、収入の不安定化に伴う自己に対する評価の低下などの要因も考えられる。何かにつけてストレスを実感させられる社会の中で生き抜くために「効率よく」キャラに(ないしはキャラから)愛情を抱く(抱かれる)ためには「子ども」になるというのは極めて戦略的な振る舞いと言えるだろう。

もちろん「俺の嫁」思想がこの世から消滅したわけではないし、「バブみ」にはこれまで「夫婦」という政治関係でしか異性(ないしは同性)を語ることのできなかったオタク、特に男性オタクが「親子」という新しい語法を身につけることができるだけの環境が醸成されてきたということでジェンダーロール的には非常に面白いというか多様性ある社会になってきた*3とも感じられ、今後どう動いていくかを観察するのが少し楽しみでいる。またこのトピックはキャラに対する過度な依存、承認欲求の変容という観点からも語ることができるだろうし、いずれはそんな記事も書いてみたいと思っている。

ちなみに私は赤城みりあちゃんだったらよしよししてあげたい派で、バブみってよく分からないな…と思っていたのだが、アニメ刀剣乱舞を見て薬研ニキに包容されたい…と真剣に思ってしまった…これがバブみか…

*1:推し声優のシャンプーを特定して飲むこと

*2:とはいえいつぞやの勢いはあまりないように思えるけど

*3:一方でオタクは極めてジェンダーロールに対して保守的であったりもするが

箱根駅伝の思い出

日本の正月の風物詩。こたつにおせちにお雑煮みかん、そして一族郎党で箱根駅伝中継ではなかろうか*1。家族揃っての出不精、完璧インドアオタクでスポーツなんか大して興味もない私だが、毎年箱根駅伝だけはなんだか気になる。

私が生まれる前にこの世を去ってしまった母方の祖父は非常に箱根駅伝が好きだったそうで、必ず家族で沿道で応援をしていたそうである*2。それに影響されてか、祖母は毎年欠かさず沿道に応援に出かけ、読売新聞とスポーツ報知の応援旗を仏壇に供えている。私は根っからのおばあちゃん子であり*3幼稚園の頃から沿道に連れ出されて応援するというのを毎年ほぼ欠かさず高校卒業までなんやかんや続けていた。祖母の熱に当てられ往路のゴール地点、芦ノ湖でゴールする選手に声援を送ったこともある。

大学に入ってからは正月も忙しくなり、沿道に出ることは無くなってしまったがテレビやネットで結果は必ず確認するようにはしている。今日も起きたのは11時だったが速報記事で順位変動を見て、テレビを点け、青山学院大学が往路優勝3連覇を決める瞬間を固唾を呑んで見守っていた。

箱根駅伝は見てる者を熱くするドラマが多い。大手町のスタートからの団子状態からどう抜き出るか、花の2区のエース争い、5区の山越え…要所要所で繰り広げられる順位変動は我々の予想を遥かに超える様相を示すことが多い。私も2009年の第85回大会、10区で2位の早稲田大学が1位の東洋大学を必死で追いかけるも届かず、わずかな差で復路2位となってしまった瞬間には思わず涙ぐんでしまった*4

しかしこうして魅力を書き連ねてみると、どのスポーツでもそんな感覚を得ることができるのでは…?という思いがしてきた。私の場合はたまたま触れる機会が多かった箱根駅伝にそこそこ入れ込んでいるだけであって、それは野球でもいいしサッカーでも良かったのかもしれない。別に自分がやらなくても誰かが何かに盛り上がる姿を見るのは文句なしに楽しいのである((なぜ楽しいのかあたりで1本書けるか(めんどくさい)))。

今年は職場での会話の幅を広げるために高校野球くらいはちゃんと見ないといけないなあ。

 

 

*1:諸説あり

*2:母方の実家は3区の難所、遊行寺坂のほど近くにある

*3:枯れた遠因がここにある気がする

*4:そんな多感な頃もあった

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

前回の更新から10ヶ月ほどの空白期間がありました。何があったかといえば特に何かあったわけではなく、仕事をしていたらアウトプットするものが何もなくなってしまった状態が続き、なんだか精神的に追い込まれてしまってキーボードを打つ手が止まっていたのでした。

アウトプットは優れたインプットがあってこそ、と思うのですが最近はインプットも追いつかない状態です。とはいいつつ、小説を読んでみたりもし、すごい久しぶりに論文を流し見したりなどその状況も改善しつつあるかな?と思うので少しずつアウトプットしていければいいな、と思います。

というわけで所信表明でした。

あの日

いつの間にか1月も空いていた。思い返すと本当に何もする気が起きていなかったので精神的に少しダウナーだったのかもしれない。

sasamatsu.hatenablog.com

この記事を読むまでも無いのだが今日は5年前、2011年にいわゆる「東日本大震災」が発生した日である。もう5年も経ったのかと思えば時の流れの早さに改めて驚かされる。

3月11日と言えば前日は大体国立大学の前期試験合格発表の日である。最近はズレてたりするけれども。そして私の高校は3月10日が創立者の記念日だかなんだかで絶対卒業式なのである。国立大学受験者は非常にやきもきした気持ちで卒業式を迎えるのだが、かくいう私もそのうちの一人だった。センター試験が比較的無難な結果で終わり、2次試験の受験後感も思ってた以上に良く*1、どことなく余裕をぶっこいていた。しかし現実は厳しく合格者一覧に私の受験番号は無かった。不合格である。

この段階で私は既に合格していた第二志望くらいだった大学に進学を決意していたが、後期試験も申し込んでいたいたため、半ば諦めた気持ちで過去問と向き合うこととなった。3月12日が試験、ということでゆるゆると昼過ぎに起きながらも赤本を開き英文に目を通し始めた時、部屋がミシミシ音を立てだした。地震だと思い顔を上げた瞬間、これまでに経験したことのない横揺れが部屋を襲った。私は幼い頃から災害やら事故やらのドキュメンタリーやら図鑑やらを読み漁るけったいな子供だったため、大きな地震だと関知した瞬間に玄関に走り、ドアを開けて出口を確保した。外を見れば工事用の仮設足場も激しく音を発てている。現実を受け止める事ができず、ドアを開けた状態で固まっていると家の中から母が「早く隠れな!」と呼ぶ声がした。その声で我に返り、寝室の布団の中に潜り込んで長く続く揺れが収まるのを待った。

最初は東海地震が来たのかと思っていたのだが、揺れが収まってテレビをつけると東北で震度6強(後に7と変わった)、居住地域は震度5弱という速報が流れていた。そして現れる震源の深さ10km、マグニチュード7.8*2という脅威の数字。直感的に津波が…と思った瞬間にはテレビに大津波警報の情報が現れ始めた。テレビの日本地図の海岸線全体がほぼ赤線か黄色線に覆われて、市の防災無線も海岸から離れるようにアナウンスが始まった。そしてそこからNHKから完全に目が離せなくなってしまった。

さすがにその日は余震に怯えながら寝た記憶がある。翌日、後期試験は1週間延期となり、その試験も無くなり、なぜかそこの大学に拾われて4年過ごして今ここに私はいる。

その大学に行かなければ無かった出会いはたくさんあった。今ここにいる私はあの日を過ぎても概ねいつも通りの1日1日を過ごすことが出来てここまで来れた。そのことには感謝しなければならないし、これからもそうであることを願うばかりだ。また5年という月日の中で甚大な被害を受けた地域もかなり前に進んできているようにも思える。ようやく2019年には常磐線が復旧する、という報道も先日あったばかりだ。震災以前に戻ることは絶対にできない、と私は思っているが震災以後、「いつも通りの生活」をすることができなかった人たちが「いつも通りの生活」をすることができるようになることをただ祈っている。

生きてるだけでまるもうけ。

*1:この感覚がまったくもって役に立たないのはご存知の通りである

*2:この後どんどんマグニチュードの数字が大きくなっていくのは恐怖以外の何物でもなかった

やる気が起こらない

kuma-rapidexp.hatenablog.com

半年前、連休ではない休みの過ごし方について苦悩している記事を書いた。これ以降ある時はヒトカラにハマり、ある時は日帰りでどこかへ行くことにハマり、またある時は模型いじりに精を出したこともあった。

で、様々な模索を続けていて今どうしているかであるがはっきり言って「何もしない」状態になってしまっている。休みの日のお決まりのパターンといえば

昼まで寝てる→PCでネットをボーッと見てる→1日が終わる

というクソ生活に明け暮れている。周りを見渡せばなんと出かける人が多いことか。職場ではウィンタースポーツに盛んに繰り出す人もいるし、TwitterのTL上でも盛んに旅行に行ったり声優イベントに飛び回っている人だらけだ。

別に私は最初に挙げたような過ごし方をしていないわけではない。用事があれば出かけるし、模型をいじりまわしたりすることもある。しかしこと最近は無為に時間を過ごしてしまうことの方が多いような気がしている。焦りがないわけでもない。半年前の記事で書いた「有意義に休日を過ごしたい」強迫観念は常に私の頭の端っこにくすぶり続けていると思う。ところが最近は何に対してもやる気がイマイチ起こらない状況が続いている。

就職してもうすぐ1年になるが慣れない仕事かつ体力も一定程度使う仕事をしていて休日に振り分けるエネルギーを消尽しているとも言えるけれどだったら基礎体力を付けてみるとかそういう方途もあるだろうがこれまたやる気が起こらない。

さて私のやる気スイッチはどこにあるのだろうか。

マンガがすき

私の母親は小さい時からマンガが大好きだ。お気に入り作品は『ベルサイユのばら』。セリフを見ただけでどこの場面かがすぐ分かるくらいの重度のオタだ。そんな母親から生まれてきた私、エヴァを見たがる母親とテレビの奪い合いをしたりしながらすっかりオタクとして育ってしまった。

母親からマンガを借りることが高校生くらいまでは結構あり、『山田太郎ものがたり』とか『のだめカンタービレ』とか『ピアノの森』とかを読んでいた*1。ところが最近めっきり借りることが無くなってしまった。母と話すと「あんたとはマンガの趣味が違う」と一蹴されてしまうのだが、確かに最近の私が読むマンガは現代的な萌えイラスト*2っぽいものが多いのは確かだ。

しかし中高生の頃は『のだめカンタービレ』とか読んで自分より年な"大人の恋愛"、まあ『のだめ』が大人の恋愛を描いているのかと言われれば大分疑問符がつくが、少なくとも上野樹里玉木宏でドラマ化できるくらいにはドラマチックだった恋愛模様に心躍る瞬間だってあったわけだ。『君に届け』の純朴さ-言うなれば青臭さに辟易として見るのを断念してしまったくらいだったし、青臭い自分から目を背けて背伸びをしたかったのかもしれない。

ところが今はどうだろう。心の底から青臭さを求めている。『いなり、こんこん、恋いろは。』では行きつ戻りつの中学生の恋模様に胸を焦がし、『一週間フレンズ。』ではリセットされているようで前に進む恋愛未満の心のゆらぎに身悶えし、『月刊少女野崎くん』ではギャグマンガのストーリーの裏でじわりじわりと動く関係性にハラハラさせられ、『アオハライド』ではド直球のストーリーに胸を射貫かれていた。

結局はないものねだりなのだろう。自分が少なくとも得たとは思えない生き様、主人公たちの恋愛を通じた葛藤と成長がとても「美しく」輝いている。自分にはそんな輝きがあるのか。輝いていないからこそ輝くす形を見て自分に輝きを取り戻そうとするのか。いつか精一杯輝きたいものである。

一カラは癒し。

*1:そういえばピアノの森は完結したそうだ。そこまで読んでいなかったことをさっき思い出した。

*2:この手のテイストのイラストをなんと表現していいかしっくり来る言葉がなくてちょっと困る。萌えはなんとなく陳腐な気がする。