ある日森の中

ただただ適当に

DDってなんなんだ

こんなしょうもないブログを書こうと思ったのはそういう前例を2つほど見たせいだからである。ブログをやるのはこれが2回目。中学生~高校生の頃に書いていた見返せば見返すほど心のなかをえぐってくるブログは削除して闇の中に葬り去った。おそらくこのブログも将来見返せば削除不可避なのだろうけれど、Twitterじゃあ書ききれない思いの丈を書き残すにはブログは一つの方法としてアリなのかもしれない。いつまで続くかもわからないけれどお付き合いいただきたい。

今日は私のTLでも散々話題になる「DD」について書いてみたい。残念ながらディーゼル機関車のことではなく、「誰でも大好き」の略の方である。

そもそもなんで私がこんな話を書くのかと言えば、大学を共に卒業し、今や地元で鮭活(これについてもいつか書こう)、東京でイベ活に勤しむ奴が「DD」の筆頭としてTLで散々言われてるからである。かく言う私も彼のことを「DD」と散々言っている。DDって本来はアイドルヲタ用語なんですが、私はよくわからんので声優オタに置き換えて以下話をしていきます。

今DDという言葉を検索して初めて知ったのだが、どうやらこの言葉意外と歴史が古いようで90年代からあるようだ。

d.hatena.ne.jp

まあはてなダイアリーだから過度に信用はできないけれど。とはいえ興味深いのはこの部分である。

>「特定のアイドルのみの熱烈なファン」という応援スタイルを採らず、広く深くアイドル全員を愛する人、およびその人の状態を指す言葉。

なるほど全てを平等に愛していく博愛スタイルが登場時の語義だったらしい。奴はキリスト教徒だったか、汝の隣人を愛せよスタイル。

このような意味で今日も捉えられているとするならば、別にDDは悪ではないはずだ。とはいえ残念ながら私のTLには「DD」に対して批判的なまなざしを向ける人は多い。私もそうだ。それどころか奴ら自分たちでDDであることを謗りあったりしている。わけわからん。

ではDDでは悪なのか。先ほどのはてなダイアリーをみるとこんなことが書いてある。>全てを平等に愛するのでランキング的なものは嫌う傾向がある。

評価はお嫌い。実はここにミソがあってTLで批判の対象になっているDDはその時々での「イチオシ」が変化しているのである。ある時は喜多村英梨、ある時は阿澄佳奈、ある時は小倉唯、ある時は水瀬いのり、ある時は佐倉綾音・・・とにかくそこに"平等性"は存在せず、ある特定の声優がその時々で、ある程度の期間を持って「最前面」に出てきているのである。ということは一定程度「評価」の弁別をつけているのではないかと仮説を立てられそうである。じゃなきゃ「好きな声優ランキング当てるまで帰れま10」とかやるわけないでしょ。

ここに批判が生まれる余地がありそうだ。「評価軸をブレブレにして推し声優をコロコロ変えている」。女をとっかえひっかえする奴に対する批判にもつながる気がする、というのが私の見解でこれは「これと決めたら1人の"異性"を徹底的に愛しなさいよ」という近代的家族(あるいは恋愛)規範が裏に隠れていそうである。話がめんどくさくなってきた。

でも落ち着いて考えてみるとDDって戦略的には十分アリな方法ですよね。ただでさえ変化の激しい声優業界、次から次へと人が現れ消えていく中で安定するのは一握りの人達。自分の推していた声優が人知れず消えていくのを見ることほどつらいこともないでしょう。そんな悲劇を避けるために「保険」をいっぱいかけておくというのは実に戦略的ではありませんか。彼らは批判されるようなことは何一つしてないのではないか、むしろ彼らを批判する私達こそが何かに囚われているのではないか。それはそれで腹が立つぞ。

とはいえ「保険」をいっぱいかけておくというのは「生物学的」にはアリだけど「人間的」にはどうなの、という哲学的な問いを投げて自分の逃げ場を作ることにしてこの記事は終わりにしましょう。なんで私はDDが気に食わないんだろうね。