ある日森の中

ただただ適当に

ぼくはライトノベルがもう読めないのだろうか

もはやこういう名前のラノベすら存在しそうな今日この頃である。

このブログを読むような人はご承知の通り私はクソみたいなオタクである。この趣味(いわゆる二次元)と出会ったのは中学校の頃である。友人が読んでいた時雨沢恵一の『キノの旅』を見て興味をもったのが始まりである。どうでもいいがこの友人と後に話したら「お前が先に『キノの旅』を読んでいたんだ」と言っていた。真相は闇の中。

以来ラノベを読むのが一種ライフワークのようになり、高校卒業までに250冊くらい読んだと記憶しています。ところが大学に入った途端読まなくなってしまいました。高校まで貸してくれ続けていた人と違う大学に行くことになったというのが一番大きな要因になったような気もしますが、それとはまた別の要因があるようにも思えるのです。

その感を強めたのは先日旅行をした時でした。オタクである私は旅先で行き場をなくし、いつものようにアニメイトに入りました(しょうもない)。特に買おうと思うものも無く、適当に店内をふらついていたのですが、ふとライトノベルコーナーに立ち寄りました。立ち並ぶ数多くの著作達。しかしこれが全く手に取ろうと思わない。本当に。「ふーん・・・」以上の感想は出てこない。これには結構愕然としました。昔だったら「おっ」と思ったもの手にとって買ったりとかよくやってたのにね。

これはなぜなのだろうかということを考えてみると、いろいろ思うところが出てきました。共通するのは自分が過去に生きる「年寄り」になっている、ということです。

話が少し変わるのですが私は有川浩、という作家の作品が好きです。『図書館戦争』の作家さんですね。なぜ私が氏の作品が好きなのかといえば、その感情表現、特に恋愛に関する人の心の動きをとても細密に、かつおもしろく書いているからなんですね。この辺の恋に恋してる感についてもいつか書きたいですね。そういうの読むの結構好きなんですよ。

で、先日『キケン』という有川浩氏の作品を読んでいてふと思ったのが「この作品、"一昔前"のラノベにそっくりなのではないか」ということです。氏のデビュー作は『塩の街』という作品なのですが、これはライトノベルレーベルである電撃文庫から当初刊行されたというのはちょいちょいされる話なんですけど、おそらく氏の作品というのはなんというか"あの頃"のライトノベル感を色濃く残しているのではないだろうか、だから私は惹かれるのではないか。そう思ったわけですね。

じゃあなんで私は「今の」ライトノベルに惹かれないのか、と言うとこれはおそらく主人公がひたすら「恋」を避け続けようとするところにあるのかな、と思う。今までろくに恋もしていない奴が何を、というのを承知で書くと、おそらく恋というものは成就しようと成就せずとも人を何らかの形に変えてくれるものだと思っています。これまでに書かれてきた多くの恋物語(フィクションの世界でしか話ができないところがミソ)では主人公達が一回り大きくなっていく様が幾度と無く書かれてきました。

ところが今も、というかある程度前の作品もそうなんですがライトノベルの結末の圧倒的王道って「これからも俺たちの騒がしい日常はまだまだ続いていきそうだ」なんですよ。「日常」、これがポイント。以下はとあるラノベ評論からの引用。

パッとしていないけれど勉強も料理もこなす草食系男子を黒一点とし、その周りをキャラ化した(あるいは、キャラ化しているふりをする)女子がとりかこむ。設定は恋愛ゲームを擬したラノベの王道だが、ある意味で真面目にシミュレーションゲームをなぞっていた頃のラノベと一線を画すのは、主人公の悩みどころが、「誰と恋に落ちるか」ではなく、「誰もが傷つかずにいるにはどうするべきか」にあることに変わっている点だろう。(波戸岡景太ラノベの中の現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア講談社, 2013, p.37-38) 

そう、「誰も傷つきたくない」というのが焦点化しているのが最近のラノベのトレンドのようなのである。日常的な瑣末な問題が発生したとしても、それは主人公たちを取り巻く関係性を揺るがすようなものではない、そんな出来事の積み重ねが記述されているものがどうやら好まれているらしい。これはいわゆる「日常系」と呼ばれるアニメにもつながるものがあるかもしれない。どうやら私はこれが気に食わないようである。ひねくれた老害と呼んでくれ。

というわけですっかり過去に生きるようになった私は今も恋に恋する男の子としてひねくれた生活を送っているわけである。早く現実生活で恋して"""圧倒的成長""""したいものですな。