ある日森の中

ただただ適当に

干物じゃいかんのか

今期からアニメをまた見始めているという話は前にした。おかげさまで日々の生活に少し潤いとメリハリが出てきたように思える(それでいいのか)。そんなアニメの一つに『干物妹!うまるちゃん』というのがある。


TVアニメ『干物妹!うまるちゃん』ノンクレジットOP映像「かくしん的 めたまるふぉ~ぜっ ...

うまるちゃんかわいすぎてちょっと死にそう。外では眉目秀麗、学業優秀、運動神経抜群の完璧少女の土間埋(うまる)ちゃんは家では熊のフード(これがまたかわいい)を被ってだらだらゲームしてお菓子食ってコーラ飲むことに至上の喜びを感じる「干物妹」だった!というのがこのアニメの核心だと今のところは思う。

うまるちゃんがすごいかわいいのはひとまず置いておいて、「干物」ということについてちょっと思うところがある。「干物女」というのは綾瀬はるか主演でドラマにもなった『ホタルノヒカリ』で一躍話題になったワードだったと記憶している。外ではうまいこと外面作って過ごしているけれど家ではだらしがない、というのが「干物」感を弾きた立たせているのがこういうストーリー立てのミソなんだろうけれど、そもそも「干物」であることの何がいけないのだろうか。

私も含めて「完璧な外面」と「家での干物状態」ということのギャップに面白みを感じているのだろう。しかしそこに面白みを感じるのだとすればそれは「外で完璧な人は家の中でも完璧である」とか「(女性は)家でもそれなりにおめかしして、ダラダラするもんじゃない」という前提があるということになるのではないか。確かに「干物女」は話題になるかもしれないけど「干物男」はイマイチ新鮮味にかける気がする。男は基本外面が良くて、仕事して帰ってきたら家ではダラダラするもんだと思っているのかもしれない。

しかし「干物女」がフィクションでも話題に上るようになるということはそういう生き方がメディア上で表象できるようになった、と捉えることもできる。それまでは女性がだらだらするなんて許されない、と表象することすら許されなかったかもしれない。今はまだ「笑い」の対象かもしれないが「干物女」が話題になった時も共感の声が多く聞かれていたように思える。そうやって少しずつ社会の「空気」は変容していくし、「干物女」が立派な生き方として取り立てて話題にならないようになるまで一般化するかもしれない。『ホタルノヒカリ』のドラマ放映が2007年だったそうで、8年という月日の流れの中でこの言葉を聞く機会も無くなってきたがこれがブームの減衰なのか一般化の証左なのかどうかは判断しかねるがどうなのだろう。というのをアニメを見ながらついつい思ってしまったのだ。

うまるちゃんと一緒にダラダラしてダメ感極まる生活してえ・・・