オタクと性(その2)
どこまで続くかわからないけれどシリーズ化してしまったんで書き進めてみたい。
オタク自身が性を遠ざけてないか、という話を前の記事でした。確かによくある(一昔前のものだろう)オタク評論で「オタクは性的敗北者」というまとめ方をするものがあったりする。男性オタク*1は女性と交際することが"できない"、からこそ"代用"として二次元の美少女たちに恋愛感情を抱く。ここが現実とリンクするからいけないというのがいわゆる「規制派」の主張の根幹にあるわけだけど、今回はその話ではないので割愛。
「オタク」という言葉の語源には諸説あるのだけど、オタクを扱う研究で一般化するきっかけとして言われてるのは1983年にコラムニストの中森明夫が雑誌『漫画ブリッコ』(これも今からすればすごい名前だ)で当時のコミケに行った際に感じたことをコラムで書いた時に使った時だ。この時はひらがなで「おたく」と言っていたのだけどこの時中森は散々「おたく」をこきおろしている。その中で中森は「おたく」を女性とまともに会話ができないとかそういう存在として扱われている。この中森の意見には当然当時から反発が多くされていたりもしたが、面白いのはそれを見た当時の「おたく」達はそのカテゴライズを受け入れながら、慎重にそのカテゴリーに含まれることを回避しようとしてきたことである。*2
つまるところ「オタクは女性とまともに会話できない」という「性的敗北者」としての他者から与えられたカテゴリーによって「オタク」は初めて自分たちが「性的敗北者」であることを認識させられたわけで、肯定するにせよ、否定するにせよそう認めた瞬間に「オタク≒性的敗北者」という一種の自己蔑視が内在化されてきたのである。カテゴリーというのはカテゴリーに含まれるものと含まれないものが存在される(と認識された)時に初めて自立することができるが、中谷によって与えられた輪郭が「オタク(おたく)」と「非オタク(おたく)」をこの世に生み出す一つの契機になったのだろう。
これが今でも尾を引いているというのは言いすぎだろうけどそのあたりは次回に書きたい。だんだん頭をつかうことのできる時間が短くなってきた気がする。ゾンビになってしまうのかもしれない。*3