ある日森の中

ただただ適当に

オタクと性(その3)

その2で「オタク(おたく)」というカテゴリーがこの世に現れたことで初めてその言葉と異性(原義的には女性)とまともに交際できないというような意味付けが結びついて認識できるようになったという話を書いた。

「オタク」という主体がそういった性愛から引き離されたようなイメージを社会的に持たれる、ないしはその社会に巻き込まれていくことで自認していく一方でちぐはぐにも思えるが消費対象としてのアニメや漫画から「性愛」を見出すことこそオタクの中心的な行動の一つであった、という指摘もある*1例えばニチアサの主役、プリキュアシリーズには視聴者が性愛を感じるような部分というのはかなり慎重に取り除かれ隠されている。しかし一方でこれを見たオタク達は覆い隠された性愛をキャラクター同士の関係性、あるいは属性、容姿といった部分から見出し、つなぎあわせそれを表現する形でweb小説や同人誌を生み出している。現にプリキュアを元ネタとしたエロ同人というのはこの世に数多存在している。またそういった表現を視聴するオタクが再び「元ネタ」を見て一種答え合わせのようにそういった性愛の「属性」を再確認することで「元ネタ」の製作サイドが意図したものとはずれた文脈が生産され続ける、というのが「オタク」の行為として大きなウェイトをしめてきたからだ。

消費対象である作品には性愛を見出しつつ、「現実的」には「性的敗北者」というレッテルに対して極めて従順に行為している(ように見えている、あるいは見られている)結果として「性欲の充足がアニメや漫画で成り立っている」というまた別のレッテルを生み出しているのではないか。そしてなぜかこのレッテルが「オタク」によって変に肯定的に捉えられて「オタクである以上、性欲の充足は二次元キャラであるに越したことはない」というような変な自己カテゴライズが発生することが「非モテ」を脱することのできた「オタク」に対する恨みねたみ嫉みにつながっているのではないか、というのが仮定的な結論だ。ただ社会的なレッテルがどう「内在化」され自己カテゴライズに転換していったのかについては慎重に検討しなくてはいけないだろう。

消費対象であるアニメから性愛を見出してきたという「オタク」像に一石を投じるかのように思えるのがこと最近話題の「日常系アニメ」で盛り上がる人達である。「日常系」は基本的には「女子だけ」がキャッキャウフフするのをニコニコしながら見るアニメである。そこから作品だけを見て「性愛」を見出すことは難しいしそれを禁じるような向きもある*2。一方でお風呂シーンや水着シーンは必ずと言っていいほどあるし「性愛」を全くもって見出だせないわけではないというのは他の深夜アニメと似たところでもあるし、「日常系アニメ」のエロ同人もかなりの数ある。「日常系アニメ」に対してなんとなく広がる「性愛タブー」ははたして建前なのかマジなのか。建前な気がするなあ*3

*1:この辺は村瀬ひろみ「オタクというオーディエンス」小林直毅; 毛利嘉孝編『テレビはどう見られてきたか[テレビ・オーディエンスのいる風景]』せりか書房, p.133-152, 2003に詳しい。なんでこんなに詳細に書けるのかといえば卒論の参考文献にしたからだ。

*2:ゆゆシコは犯罪らしいし

*3:私はタブー感じちゃったりするけれどなんでなんだろう