ある日森の中

ただただ適当に

枯れてる話

自分は良く老けていると言われることが多い。テレビを点けて喜んでみるのは80年代~90年代を振り返る番組、カラオケに行って歌うのは80年代邦楽、挙句親と話していても「あんたが自分の子供だと到底思えない」と言われる。自分でもスーツを着て佇む姿は"フレッシュマン"のは程遠い哀愁が漂っていると思う。

この間「エネルギー切れ」の話を記事で書いてつぶやいた後に、「考え方が老成している」という反応が返ってきた。仕事が諸々うまく行かないというとかそういうままならないことに対してやり場のない怒りというかそういうエネルギーに行かずにどことなく醒めて自分を見ているところが「老成」していると思わせてしまったらしい。

確かに「若さってなんだ」という問いに「振り向かないことさ」と答える曲があったように「若さ」という言葉には「ひたむきさ」、「熱心さ」、「がむしゃら」とかそういうワードが絡んでいることが多いと思う。今この記事を書きながら聞いている曲が主題歌だった『一週間フレンズ。』も高校生のまっすぐさが本当にストレートに心に染み入るいい作品だった。

話がずれた。『一週間フレンズ。』が心に染み入ってくると感じてしまう私は、一体何に感じ入っているのか。自分には無い、あるいは失ってしまった「若さ」を哀しい目で見つめているのか。とにもかくにも今の私にはそういう「まっすぐさ」が欠けてしまっているというのに今更ながら気付かされたのである。

いつからこうなってしまったのか。小学生の時から「今って言った瞬間にその今は過ぎ去ってるんだよなあ」と中二病ともつかないことを言っていたから救いは無かったのかもしれないが、高校の頃まではなんだかんだで部活にひたむきだったようにも思える。するとやはり大学生活だったのだろうか。サークルにひたむきでなかったわけではない。でもなんとなく「若さ」とは当時から無縁だったように思える。「しらけ世代」のような腑抜け感は常に私の周りにまとわりついていた。大学からのものの考え方にスッと馴染んでいけたのは高校生活末期に何かあったからだと自分では思っているのだが、そこで何かが変わってしまったのだろうか。この何かが今でも思い出せず、時々もんにょりする。

何はともあれ今の私には「若さ」は圧倒的に足りない。アンチエイジングが叫ばれる世界の中で、歳相応の「若さ」が見られないというのは確かに問題だ。しかしそんな自分が嫌いかと言えばそうでもない。なぜなら「生きやすい」からだ。人や物事に対してうまくいかない葛藤が生まれた時、そもそも自分の意志なんて相手にきちんと伝わるわけがない、社会が「適切に」自分の思いを理解してくれるわけがないと一度思ってしまうとこの世の辛いことは6割位なんとなく乗りきれるようになってしまうのではないだろうか。それでもうまくいかなくなった時、初めて怒りが生じてくるかもしれないが幸せなことに今のところそんな機会は少ない。怒ると余計にエネルギーを使うしそんなことより他のこと考えて居たほうがマシなのである。

願わくば自分の生きたいように生きることがもっと許される社会を。