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ある日森の中

ただただ適当に

承認欲求

人は一人で生きることはできるか?

この問いは今まで多くの人を悩ませ続けてきたが答えはまず出ないだろう。何をもって「生きる」と呼ぶのかが固定化できない以上、一人ですることのできる範疇には限界はあるし、それを「生きる」と呼べるか否かに全てがかかってしまうからだ。

私は「生きる」ことはできても「生活」は出来ないなあと思っている。人間らしく、というのも曖昧な言い方ではあるが人が人として生きていくためには誰かの存在というのは欠かすことはできない。そうでなければ自己というものを構築することは難しいからである。

よくアイデンティティの確立、ということが言われる。アイデンティティ、日本語に訳せば自己同一性、自分が自分であるという認識が激動の時代の中では大事である、と。しかし自分とは何か?他者とは何か?そこに境目はあるのだろうか。極めて曖昧模糊としていて自分の中に他者が入り込むことだってあるだろう。自分という存在はどこまでなのか?自分と誰かとの絶え間ないやり取りの中で「自分」という存在は形作られていく。

そうやって"作られていく"自分という存在を考えると、「誰かに認められたい」という欲求も1つ大きな構成要因となっていると思われる。

notoya.hatenablog.com

公共圏の薄弱化と親密圏の狭窄、依代が極めて頼りなくなってしまった中、自分を自分として定義づけられるのは"誰か"からの承認。人から認められる、知られる、褒められる…様々な交歓の中で初めて人は自分を自分として認められるようになる。そして一度認められればその麻薬のような魅力に取り憑かれ、常習性が高まっていく。彼女/彼氏に愛される、仕事ぶりを評価される、声優から認知される、歌を歌ってみたらうまいと褒められファンがつく、イラストを描いたらファンがつく、おでんツンツンしてみる、チェーンソーで人を脅してみる…

そのベクトルがひとたび「社会」の枷から外れて暴走してしまえば爪弾きとなるリスクは発生するが、形はどうであれどこかにあるがどこにもない「自分」をつかもうと皆必死なんだろう。私も必死だ。褒められたい、出世したい、モテたい…そこにあるのは誰かに「認められる」というシンプルな行為である。

youtubeTwitterの存在によって「認められる」方策は飛躍的に増え、かつ容易なものになった。そのことがまた別の歪みをもたらしているのは事実として、この認められたい気持ちの暴走の行く末がどうなるのか。と最近の炎上騒ぎなりなんなりを見ていて感じるところである。

ちなみに最近の私は「歌い手になって誰かにめっちゃ可愛いイラストでアイコン描いてもらいたい」という承認欲求なのかすらよく分からない欲求の虜になっている。