ある日森の中

ただただ適当に

ソシャゲにズブズブな話

ぽっかりと更新が途絶えてしまった。実は異動があったのだが未だに仕事らしい仕事ができず会社でボーッと座っている状態が続いている。文章にすると魅力的なのだが哀しきかな人という社会的生物は周りが忙しくしているのに自分が暇だとだんだんいたたまれなくなってくる。現状その状態である。つらみ。

さて、

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あんさんぶるスターズというゲームに手を出した話をした。

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先月の末にダウンロードしたので始めてから1ヶ月くらい経った。端的に状況を申し上げれば非常に悪化している。昨日終わったとあるイベントが"推しユニット"が主体であったものだったことが災いし、即googlePlayアカウントにカード情報登録、クレカで課金して石を買うという魔道を突き進んでしまった*1。というか現在進行形でしている。本当に私はこういうソシャゲに対しては自分から遠ざけていたところがあって今回の沼のはまりこみについては

 こういう評を頂いたりもした。正直自分でも驚いている。全くソシャゲに手を出したことが無かったわけではないがどれもはまり込みがイマイチだったのになぜ「あんスタ」にはハマってしまったのか。

私がこれまでやっていたソシャゲは「白猫プロジェクト」と「剣と魔法のログレス」というRPG系では絶大なシェアを誇るものだ。いろいろ特性があるのだけれど、前者はキャラが強ければどうにでもなってしまう「キャラゲー」要素が強く、後者は武器がなければどうにもならない「武器(装備)ゲー」要素が強い。白猫の魅力は有名声優陣を起用したボイスと簡単な操作性、ログレスの魅力はクランと呼ばれるグループを作って友人たちと戦える「共有性」にあったと思っている。

元来RPGとは縁のなかった私であったが、「白猫」を始めた時は操作性のしやすさとテンポよくシナリオに興味を引かれ、また素敵なボイスに心躍らせたし、「ログレス」を始めた時は会社の同僚と一緒に戦うことに盛り上がっていた。しかしある程度勧めたところで限界が来た。「白猫」は課金せずともガチャの原資たる石が比較的よく貯まり、俺TUEEEキャラがうっかり手に入ったところでなぜかデータが飛び、完全に意気消沈してしまった。ログレスも同僚がTUEEEE武器を手に入れる中、私はちっともガチャの引きに恵まれず、というか無課金だと石が全然貯まらずガチャも引けないという悪循環の中で相対的に弱さが目立ち始めてだんだん面白くなくなった。

そんな状態で出会ったのがあんスタだったのである。美麗なイラスト、素敵な声優陣、アプリを立ち上げれば自分を「プロデューサー」と呼んでくれ全幅の信頼を寄せてくれるイケメン達。天国。そして何よりそこそこの石の貯まりやすさと課金による投資がそれなりの結果として返ってくるシステムは私を完全に魅了してしまった*2。というわけで次から次に現実マネーを溶かし、webマネーへ両替を続けてしまうわけである。

そういう意味で本当にアイドル育成ものは抜け目なく出来ていると思うし、一度落ちたら本当に抜け出せない冥府魔道であるとその渦中にありながら痛感している。しかし理屈どうこうではない。ただただそこに私を信頼していくれる"人"がいる、それだけでなんとなく救われる気がするではないか。たまらん。

*1:今回のイベント計では諭吉が4枚飛びました。6枚飛ばした人の話を聞いたのでまだまだ

*2:あんスタにおけるイベントはガチャとライブに参加することでポイントを貯めてボーナスを得るというスタイルの2種があり、ここで私が言っているのは後者である。ガチャ運は相変わらずない。しかしガチャを引いてもライブイベントの戦力として使えるからまったく無駄というわけでもない

許されること

私生活がゴタゴタしていて落ち着いてモノを考える時間も取れていない。普段からそんな物を考えながら生きているわけではないのだけど。

『けものフレンズ』というアニメが話題になっている。

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このリンクを貼ろうとしてページを開いたら503エラー吐くわで大変だった。それくらい話題性が高いということだろう。私はどうにもフル3Dのアニメが苦手で見るのを避けてたのだが、あまりに話題になっているものだったので1話だけ見てみた*1。確かに何かをする度に「すごーい!」と褒めてくれたり「フレンズによって得意なことが違うから…」という包容力を吐くサーバルちゃんに癒やされる向きがあるのには納得がいった。

日常生活の中でこのように褒められることはほぼ無いだろう。結果ばかりが重視される成果主義社会の中でうまいこと結果が出せなければ叱責され評価は落ちていく。得意なこと、不得意なことがあるのは見なかったことにされて「定形通り」になることをやんわりと強制されていく、そんな世界に生きる私達にとってこのアニメは清涼剤以上の教育的要素を多く含んでいる。

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この記事でも書いたけれど、人は誰かに「認められる」ことによって初めて「自分」という存在を確定することができると私は思っている。端的に「すごーい!」と言ってくれる人が周りにどれだけいるか。またそう言ってもらえることがどれだけありがたいか。

だから『けものフレンズ』を見る人達が少しでも他人に対して「すご~い!」と言えるようなそんな社会になってくれればいいなと思っている。この世はジャパリパークより厳しい。

*1:今のところ1話しか各所で配信されておらず、課金する気にもなれていない…

イケメンが"ある"生活

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この記事でイケメンに対する思いを綴ったわけだが、それをこじらせた(ている?)話。

先日会社の同期とカラオケに行った時に、同期がスマホをポチポチしながら何かのゲームに興じていた。見てみるとかわいらしいSDキャラが画面内で踊っていた。そのゲームの名を「あんさんぶるスターズ!」という。

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いわゆる「アイドル育成ゲーム」の1つであり、女性向けでは「アイドルマスター SideM」や「アイドリッシュセブン」らと共に人気を博している。かくいう私も存在自体は知っていて、出演している声優陣の豪華さに驚いたり

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リリース前に公開されていたこの動画を見てテンションが上がったりしたこともあり、存在として気になっていた。

私自身、アイドルマスターシリーズを始めとしたこういう育成ゲームの類は周囲に"やばめ"な人が多かったこともあり、意図的に遠ざけてきたところもあった。しかし実際に真横で知り合いがやっているという刺激は予想外に大きかったようで、本当に気まぐれだったのだがカラオケがあったその日の夜にアプリをインストールしてしまった。

 

生活が激変した。

 

寝ても覚めても(というか布団に入りながら)スマホが手放せない。通勤退勤時もそうだ。ずっとスマホを握りしめてせっせと育成に励んでいる。諸々の都合で手放している時も「あーいじりてえな…」と思ってしまう。なんだこの魔力は。自分でも恐ろしくなってくる。正直遠ざけていた頃ははまり込む人たちのことを理解できない面が多々あったのだが、いざ自分がやってみると完璧にのめり込み、沈み込んでしまっている*1の貯まり方が恐ろしく悪いために完全に停滞してしまっている。

そんな中「あんスタ」に限らずアイドルゲームが強いと思うのは初期段階でのそこそこの石の貯まりやすさとキャッチーなキャラクターを多数配置することによってガチャに対する心理的ハードルが著しく低下させているということではないのだろうか*2。「意外といけるやん?」とユーザーに思わせてストーリーに引き込ませれば後はもう自動的にやりこみ、限界が来たら「課金」をする機械に早変わりである。私もイベントを走らせながら課金をしまいか既に算段中である。ガチャの引きが弱すぎる。石くれ。

私も熱しやすく冷めやすい質であるから正直いつまでこの熱が続くか分からないが、イケメンが耳元でささやき、手元の画面でかわいらしく踊るというイケメン情報過多の世界に染まってしまった私はしばらく生活がスマホ中心に哀しく回ってしまうだろう。光あれ。

*1:とはいえまだ課金していないからエンジョイ勢→課金しました。沼に腰まで浸かってしまった(2月10日付記)))。仕事が辛い時はスマホを立ち上げるとイケメンがいると思うとなんとなく辛さが和らぐ。なるほどこれが"パートナーがいる"という強みか。

実は社会人になってから職場の人に勧められソシャゲのいくつかに手を出していた。白猫プロジェクトと剣と魔法のログレスだ。前者は1回データが飛ぶ憂き目に遭いながらも俺TUEEEE武器を手に入れて無双ができるようになったところで飽きが来て、後者は逆に使い物になる武器が全くと言っていいほど手に入らず、挙句石((ガチャで使う魔法の道具

*2:とはいえ私はあんスタしか知らないから他のゲームがどうかは分からない

鉄道模型という趣味

横浜に出かけてきた。私が横浜に出かける時は十中八九模型を買うか同人誌を買うかのどちらかであり、今回は前者だった。とはいえ一つの用事だけを済ませて帰るのももったいないのでよく書店に立ち寄る。大体ダイヤモンド地下街の有隣堂ダイエーの中にあるあおい書店だ。

書店に入っても特に見るものがなければ自然と鉄道雑誌のところに足が向くのがオタクの悲しい性である。何人かの先客の間に入って雑誌を手に取る。最近は『鉄道ファン』とか『鉄道ジャーナル』といった実車系雑誌を見なくなり、もっぱら『N』とか『RM MODELS』とか鉄道模型に関する雑誌を開いている。そんな中、今月の『RM MODELS』に気になるコラムが載っていた。

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鉄道趣味の世界ではかなりの知名度を誇る名取紀之氏。上記の記事でも書かれている通り、この度定年を迎え職を辞されるそうである。そんな氏の最後の挨拶が掲載されていたのだ。詳細については実際に手にして見ていただきたいのだが、『RM MODELS』発刊に際しての四方山話と所感が綴られていた。その中で書かれていたのが創刊時に扉に書かれていた言葉についてのものだった。

読んでいて昔ブックオフで偶然置いてあった創刊号を手に取って見てみた時のことを思い出した。「今、楽しんでいますか」という言葉から始まるその創刊の辞は模型趣味に対する一つの投げかけとしては今でも通用しうる重さを持っていた。

鉄道模型は言うまでもなく趣味である。あまつさえ「趣味の王様」という二つ名を持つくらい世界的に親しまれている趣味だ。しかし自戒も含まれるのだが趣味として鉄道模型を「楽しめている」だろうが。趣味というのは底のない深みが延々と広がっていて、上を見ればキリがないほどその道に長けた人たちが存在している。そして複数のメーカーから数え切れないほどの商品が発売されている。出てくる商品をひたすら買いあさる、あるいはディテールアップを極限まで施す。もちろんそういった楽しみ方があるし、没頭することで日々の疲れが癒やされるのは間違いないのだろうか否定されるべくはない。しかしそういうところにあらゆる「しがらみ」が潜んでいて、いつの間にか自分を縛る枷となっているのではないか、とコラムを読んでいて改めて気付かされた。

これを読んだのが模型を買った後、というのがなんとも皮肉ではあるのだけど、気づいてみれば私もこの趣味を始めて10年以上が経過している。単純な数で見ても少なからぬ量を所有している今、自分が本当に「楽しい」のはなんなのかというのと腰を据えて見つめ合ってみるべきなのかもしれない。

だから私は人に模型をすすめるのはQOLを向上させる一プランを提示しているだけなんだよ。悪気はないんだよ。

イケメン

イケメン、イケてるメンズの略称ということだがこの言い回しそのものがなんだか古臭さを拭い去れないくらいに「イケメン」という言葉は広く使われている。

ただしイケメンに限る」この言葉の魔力は凄まじいものがある。世に言うイケメンであれば壁ドン床ドン股ドンかまして胸キュンである。一度"きもちのわるいおじさん"がそんなことをしてしまえば手が後ろに回ってしまいかねない。

イケメン、という言葉には派生語も存在していて、その中に「イケボ」というものがある。様々な類型が存在するけれど平たく言えば「ええ声」ということである。世間的に言えば比較的低い"男性らしい"色気ある声が想像しやすいだろうか。

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以前にこの記事でも書いている通り私は卒論執筆のストレスから逃れるためになぜか「女性向けシチュエーションボイス」にのめり込んでしまった。それは今も同じでむしろ悪化している節もある。

アニメを見る時の基準が声優、という方は多いだろうが私はもう男性声優で誰が出てるのかということに対するウェイトが非常に重くなっている*1。そういう意味で前クールは「刀剣乱舞 花丸」と「ユーリ on Ice」で胸焼けがするほど尊さを感じていた*2。昇天。

しかしアニメで美しく描かれる男子(とその声)に大してキャーキャー言う、というのはどういう感情から生まれてくるのだろうか。恋愛感情?そういうセクシャルなものなのだろうか。純然たる憧れ?冒頭で述べたようにイケメンというのは大概何をしても許される*3。そんなヒーロー的存在と画面、ないしはヘッドホンを通した交歓を通じて自分の手の届く位置にあることに興奮しているのかもしれない。イケメンになりてえなあ。

しかし経験がないというのであれば本当に試しでいいから一度シチュエーションCDでも聞いてみてほしい。イケメンに耳元でささやかれるという究極の非日常が味わえますよ?

沼の淵でお待ちしております。

 

*1:女性声優に興味がなくなったわけではない。沢城みゆきは本当に好きだし、最近は大空直美小澤亜李あたりが良いですね

*2:ちなみに好みの男性声優、というのはあまり定まっていない。完全にDD状態である。

*3:というのは不細工の僻みもあるけれど

休む、とは

先日大学を卒業して地元に戻った先輩が東京に遊びに来る、というので顔を出してきた。会って軽くお茶をしてから焼肉をしてきた。平日休みの日に呑むビールは最高…というのは別に主題ではない。

互いに一応社会人として生活をしている者同士、酒を飲みながらする話といえば仕事とかの愚痴になるのは畢竟である。そんな中、「仕事で疲れ切ってしまって休みの日も何もすることなく過ごしてしまってダメだ」という話が出た。

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休みの日の過ごし方についてはこんな記事も書いている。この記事の中で私は「休みの日は『有意義』に過ごさなければならないという脅迫感」について触れている。実は今日も私は休み、というか3連休を頂いてうち2日を旅行に費やし、今日は家に居たわけだがさすがに疲れが出たのか昼過ぎまで布団から出ることができなかった。起きたら昼が過ぎてる絶望感というのはなんともいえないものである。

しかしよく考えてみれば不思議なものである。休日、というものは労働とかそれに類するものに対置されるのであって、そういった日常生活の疲れを癒やすために存在するはずのものである。一応労働基準法によって労働者に対して休日が与えられることは規定されている*1。だとすれば長時間寝て、昼過ぎとか下手すれば夕方に起きるような休日の過ごし方というのは極めて"有用"ではないだろうか。

しかし世間的に見てどうやらそうではないらしい。冒頭で言ったように「寝て過ごして無駄にした」絶望感というのは多く語られるものであるし、googleで「休日 無駄」と検索するとそのような生活をしてしまった後悔とそれの対策について書かれたサイトが非常に多くひっかかる。どうやら日常生活で溜まるストレスを休日に発散することがストレスマネジメントとしては重要だということらしい。

寝れば肉体的ストレスは概ね解消されるだろうからここで言うストレスは精神的ストレスが中心になる。精神的ストレスの発散方法としては色々なものがある。運動、風呂、カラオケ、睡眠、趣味に没頭…とりあえずこういった活動を休日に行えば仕事に対する活力が生まれて圧倒的成長、ということらしい。

私も出不精でありながら旅行が趣味という矛盾を抱えながら、なんやかんやいいつつ休日には旅行に出かけている。旅行に行くことが肉体的ストレスになりかねない問題はあるが、自分の見知らぬ土地に行ってものを考えるというのは精神的ストレスの消化方法としては十分有用だろう。趣味というのは偉大である。幸いにして私にはいくつか趣味があるからそのどれかによって日常生活の辛さから逃避することは大体可能である。

じゃあ何らかの趣味をする日を全ての休日にはめ込めばいいのか、となれば実際のところはそうではない。仕事をしながら次の休日にはこんなことをしよう、と思っていたって休日が来てみればやる気が起こらないという日が非常に多くやってくる。そこで冒頭のような罪悪感が生まれるのである。休みなのにストレス解消ができていない(ように思えてしまう)のは休日を無駄にしてしまったのだ。これが「何もしていない」「やる気が起きない」ことに対する罪悪感の背景なのだろう。

趣味をするにしたってストレスとは切り離せない。旅行に行くにしたってお金を使ってしまうということがストレスになりかねない。

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ラーメンズだって言っている。

こうなるともう八方塞がりだ。何かしようとすれば結局ストレスとは切り離せないしストレス解消なんていう綺麗事を休日にしようなんて考えるから辛いのだ。最初からハードルなんて上げない方がいいのかもしれない。

「なあ、『転がらない石に苔はつかない』という言葉を知ってる?

「知ってます」

「つまり、そういうことなんだ。分かるだろ?」

「……もっと苔をつけて、やはらかくなります」

「おいおい、お地蔵さんじゃないんだから」

森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』朝日新聞出版, 2016, p.45-46 

 休日になにもしないことに心血を注ぐ主人公と、対照的に休日にどれだけの予定を詰め込むのかを常々考えている先輩との会話である。これくらいの心意気でいれば気も楽になるのではないか。苔をつけよう。

*1:ちなみに休日の意義みたいなものが書いてあるかと思ったが書いていなかった。憲法25条あたりが根拠だろうか

承認欲求

人は一人で生きることはできるか?

この問いは今まで多くの人を悩ませ続けてきたが答えはまず出ないだろう。何をもって「生きる」と呼ぶのかが固定化できない以上、一人ですることのできる範疇には限界はあるし、それを「生きる」と呼べるか否かに全てがかかってしまうからだ。

私は「生きる」ことはできても「生活」は出来ないなあと思っている。人間らしく、というのも曖昧な言い方ではあるが人が人として生きていくためには誰かの存在というのは欠かすことはできない。そうでなければ自己というものを構築することは難しいからである。

よくアイデンティティの確立、ということが言われる。アイデンティティ、日本語に訳せば自己同一性、自分が自分であるという認識が激動の時代の中では大事である、と。しかし自分とは何か?他者とは何か?そこに境目はあるのだろうか。極めて曖昧模糊としていて自分の中に他者が入り込むことだってあるだろう。自分という存在はどこまでなのか?自分と誰かとの絶え間ないやり取りの中で「自分」という存在は形作られていく。

そうやって"作られていく"自分という存在を考えると、「誰かに認められたい」という欲求も1つ大きな構成要因となっていると思われる。

notoya.hatenablog.com

公共圏の薄弱化と親密圏の狭窄、依代が極めて頼りなくなってしまった中、自分を自分として定義づけられるのは"誰か"からの承認。人から認められる、知られる、褒められる…様々な交歓の中で初めて人は自分を自分として認められるようになる。そして一度認められればその麻薬のような魅力に取り憑かれ、常習性が高まっていく。彼女/彼氏に愛される、仕事ぶりを評価される、声優から認知される、歌を歌ってみたらうまいと褒められファンがつく、イラストを描いたらファンがつく、おでんツンツンしてみる、チェーンソーで人を脅してみる…

そのベクトルがひとたび「社会」の枷から外れて暴走してしまえば爪弾きとなるリスクは発生するが、形はどうであれどこかにあるがどこにもない「自分」をつかもうと皆必死なんだろう。私も必死だ。褒められたい、出世したい、モテたい…そこにあるのは誰かに「認められる」というシンプルな行為である。

youtubeTwitterの存在によって「認められる」方策は飛躍的に増え、かつ容易なものになった。そのことがまた別の歪みをもたらしているのは事実として、この認められたい気持ちの暴走の行く末がどうなるのか。と最近の炎上騒ぎなりなんなりを見ていて感じるところである。

ちなみに最近の私は「歌い手になって誰かにめっちゃ可愛いイラストでアイコン描いてもらいたい」という承認欲求なのかすらよく分からない欲求の虜になっている。