そうだ、京都へ行きたい
先日テレビでJR東海の「そうだ、京都、行こう。」のCMを見た。下鴨神社をフィーチャーした最新シリーズを見て思わず「ああーー行きてえええ」と叫んでしまい、親に呆れられた。最新シリーズはJR東海の公式サイトでCMも見ることができる。
しかしこのシリーズ、1993年からやっているそうで、20年以上も続く長寿広告なのであった。今やすっかり「そうだ、京都、行こう」という言葉は京都へ行くことを示すシンボルになったし、CM曲のマイ・フェイバリット・シングスはもうサウンド・オブ・ミュージックの曲、というよりあのCMの曲と言ったほうが通りがいいのではないかと思えるくらい浸透していると思う。
かくいう私もすっかりこのCMに乗せられて京都へ行ってしまうクチだ。お金が無いからそんなに行っているわけではないけれど、関西は好きだし先日EX会員にもなったんで今後来訪スル機会はますます増えるだろう。
しかしなんで私、とか他の人も含めて京都にどんどん行こうとするのだろうか。たまたま手元にあった鉄道ジャーナルのコラム記事にとても示唆に富む記述があった。
京都は、その失われし歴史と文化が偉大であるがゆえ、あまりに巨大な空洞をカタチとして残してしまった。その空洞を埋めるものはなく中身が空洞だからカタチは形を変えずカタチのままいつまでも残っていられる。実態がないぶん存在感を放ち、人々の頭のなかでより生き生きと君臨する。(鍋倉紀子「これもまた鉄道4 そうだったのか、京都」『鉄道ジャーナル』鉄道ジャーナル社, 第39巻4号, 2005, p.79)
なるほど、紆余曲折を経ながら1100年も日本の都であった京都にはとてつもない歴史に裏打ちされた伝統が眠らされている。明治維新以後(応仁の乱くらいから始まっていたかもしれないけど)の文明化を経て、「空洞」となりながら京都という「都」の匂いが残っているのだろう。この匂いを嗅ぎとって「勝手に感じ取ることができる」のが人を惹きつける原因なのかもしれない(日常系の話につながった)。
かくいう私はどういう「匂い」を魅力に感じるかと言えば
京都が純然と京都たり得る場所は実は大変限られており、その空間が常に現代日常都会生活と隣り合わせの場所であるという点で京都はきわめて稀有な町である(鍋倉紀子「これもまた鉄道4 そうだったのか、京都」『鉄道ジャーナル』鉄道ジャーナル社, 第39巻4号, 2005, p.79)
というところである。ともすればイライラするだろう四条通の渋滞(車線減少はやめてほしい)とか北大路バスターミナルから市バスがドンドン出てくるとかそういう極めて現代的な風景が繰り広げられる中、振り返ってある店は平気で創業500年ですとかそういう世界がたまらないのだ。また行きたいなあ京都。