ある日森の中

ただただ適当に

怠惰な時間

シリーズ化する、と言った次の記事で別の内容の記事を書く適当さよ。

今日も私は休日だ。前日の疲れがたたったかいつも通り起きたら正午を過ぎていた。朝昼食を食べて、毎週木曜恒例のガンガンONLINE更新分の漫画を読み、ふとテレビをつけると映画をやっていた。テレビ東京で昼過ぎにやっている「午後のロードショー」だ。今日はアメリカの「マチルダ」という映画をやっていた。

マチルダ (映画) - Wikipedia

映画を見ながらWikipediaのページを見て盛大にネタバレされてしまったのだけども、なんだかんだ最後まで見てしまった。我が家では「午後のロードショー」は一度見始めたら抜け出すことはできない、とその魔の手が恐れられている。実際見始めると結構面白いのだ。午後のロードショーでは基本的に洋画が流されているが、本当に面白いのである。

なんで洋画って面白いんだろうか。ところどころに日本とは違う文化とかセンスが現れているからなのかストーリーの「ひな形」が違うからなのか。とはいえ一度見始めてしまうと続きがついつい気になってしまう魅力がやはり映画にはあるなあと思う。

しかし考えてみると映画館で最後に映画を見たのはだいぶ前な気がする。おそらく「まどか☆マギカ」の劇場版を見に行ったのが最後だったと記憶しているから2年くらい行っていない。映画で何をやっているも情報を集めなくなってしまったけれど、映画館で映画を見るという事自体は好きなんだと自分で思う。ポップコーンとドリンクとパンフレット*1を持って劇場に入り、大画面と整った音響設備の中で迫力ある映像を見るというのは家ではなかなか体験できないしちょっとした非日常感を感じられていい。しかし見るのに毎度毎度1500円支払うのが大変だなあと思ってしまうが模型買うのと比べればまったくもって大した額ではないのである。

ちなみに午後のロードショー、再来週はTaxiをやるらしい。また時間が奪われそうだ。

*1:人に話すとありえないと言われるのだが、私はパンフレットを映画が始まる前に買って始まる前に全て読んでしまう。

オタクと性(その2)

どこまで続くかわからないけれどシリーズ化してしまったんで書き進めてみたい。

オタク自身が性を遠ざけてないか、という話を前の記事でした。確かによくある(一昔前のものだろう)オタク評論で「オタクは性的敗北者」というまとめ方をするものがあったりする。男性オタク*1は女性と交際することが"できない"、からこそ"代用"として二次元の美少女たちに恋愛感情を抱く。ここが現実とリンクするからいけないというのがいわゆる「規制派」の主張の根幹にあるわけだけど、今回はその話ではないので割愛。

「オタク」という言葉の語源には諸説あるのだけど、オタクを扱う研究で一般化するきっかけとして言われてるのは1983年にコラムニストの中森明夫が雑誌『漫画ブリッコ』(これも今からすればすごい名前だ)で当時のコミケに行った際に感じたことをコラムで書いた時に使った時だ。この時はひらがなで「おたく」と言っていたのだけどこの時中森は散々「おたく」をこきおろしている。その中で中森は「おたく」を女性とまともに会話ができないとかそういう存在として扱われている。この中森の意見には当然当時から反発が多くされていたりもしたが、面白いのはそれを見た当時の「おたく」達はそのカテゴライズを受け入れながら、慎重にそのカテゴリーに含まれることを回避しようとしてきたことである。*2

つまるところ「オタクは女性とまともに会話できない」という「性的敗北者」としての他者から与えられたカテゴリーによって「オタク」は初めて自分たちが「性的敗北者」であることを認識させられたわけで、肯定するにせよ、否定するにせよそう認めた瞬間に「オタク≒性的敗北者」という一種の自己蔑視が内在化されてきたのである。カテゴリーというのはカテゴリーに含まれるものと含まれないものが存在される(と認識された)時に初めて自立することができるが、中谷によって与えられた輪郭が「オタク(おたく)」と「非オタク(おたく)」をこの世に生み出す一つの契機になったのだろう。

これが今でも尾を引いているというのは言いすぎだろうけどそのあたりは次回に書きたい。だんだん頭をつかうことのできる時間が短くなってきた気がする。ゾンビになってしまうのかもしれない。*3

 

 

*1:「オタク」といった場合高確率で男性を指すというのは興味深い。最近減ってきたようには思えるけれど、女性の場合は"女"オタクと区別されたり腐女子といっしょくたにされたりしている。この辺の趣味の非対称性も面白い。

*2:この辺りは團康晃「『おたく』の概念分析-雑誌における『おたく』の使用の初期事例に着目して-」『ソシオロゴス』, 第37巻, 2013, p.45-67(

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019978133)に詳しい。ネットに公開されているので興味があればぜひご一読していただきたい。

*3:ゾンビではないけれどできることならみーくんに噛まれたい。

オタクと性

sasamatsu.hatenablog.com

私の周りではこのブログのように自らの「セックスしたい」という思いの丈を言葉にしてTwitterのタイムラインに叩きつける人がなんやかんやで多い。私とてしたくないのかと言われればあれやこれやしたいことはあるもんである。これを受けて世の人は言う。

「そんなにしたいなら風俗にでも言ってしてくればいいだろう」

これに対しては

sasamatsu.hatenablog.com

こうした形でこれまた理由がつけられて否定されたりする。これに対しては「結局こわいんじゃないか」いう思いを持っている。正直私もこわい。

もう1つ面白いなと思うのがコミケ後に流れた乱交パーティー体験記ツイートである。まとめが削除されてしまったようなので元ツイートが読めなくなっているのだが、私は全部読んで結構こわい世界があるもんだなあと思った。もちろんツイートされていたような行為は倫理的に非常に問題があるのは間違いない。しかしよくよく考えてみればあのように多くの人が集まる場において何らかの出会いが発生した場合、そのままホテルへ直行・・・みたいな流れが存在してもなんら疑問は生じない。あくまで違法性がない場合においてのみである。コミケは別にそういう出会いのための場所ではないというのも一応注記しておくけれど、あくまで副次的に出会いが発生しすることだって避けられないだろう。

しかしこういった行為はネット上ではオフパコといって批判の対象になったりする。しかし通信技術が発達したこのご時世、ネット上で知り合いができることは日常的に鳴ったしそこから男女交際につながっていくというのも避けられた話ではないだろう。しかしどうも私のようなオタクはそういう人達に対して「うまく立ち回りやがって」というような怨嗟の声を向けてしまう。整理すれば自分は「セックスしてえ」と高校生みたいなことを言っておきながらその希望を叶えた「同類」は許さない状況が存在している。

夢を叶えた人に対して羨む気持ちを持つというのはごく当たり前のようにも思えるがどうも私達オタクは「性」というものに対して(渇望しつつも)えらく距離を取るような態度を取ってしまうように思えて仕方ない。自分も含めてそれはなぜなのか考えをまとめていきたいけどここまで書いて疲れたので次回以降に。

私の興味の在処

このブログでは私が時折考えていること、興味をもったことをつらつらと書いてきた。今回は軽くそれをまとめてみたいと思う。

大学時代、私は大きな括りでいうところの「社会心理学」を扱うゼミに所属していた。この話を人にすると高確率で「すごい!人の心が分かるんだね!」という返答が飛んでくるのだが、大学(院)で「心理学」を学んでいる人にこの言葉を投げつけるとこれまた高確率で内心怒りを買っているのでこのブログを読んでいる皆様においてはぜひこうした言葉をかけないでいただきたい。人の心がそんな簡単に分かってたまるか、という話である。

で、社会心理学とは何なのかというのを私なりの理解の下で説明するならば、人間という「社会」を作って普段生活する生物がどう人間同士、あるいは「社会」とやり取りをすることで日々生きているかを研究するものだと思う。その調べ方こそ多種多様であるけれど、私の所属していたゼミは比較的オーソドックスな多くのサンプルに対して実験をしてデータを集めるようなやり方ではなく、少数のサンプルを深堀りしていくような考え方をしていました。

大学に入って「社会心理学」という学問領域に出会ったのだが、これがどうにも私には魅力的に映ってしまった。というわけで2年間教授の下でその一端に触れていたわけだが、これがなかなか大変で特に卒論執筆時にはかなりナーバスになるくらいであった。とはいえとりあえずやりきって卒業するまで私をつなぎとめていたのは「人」への興味だった。

どうにも私は「人」という存在が好きらしいのだ。でもそれは世間一般にいう「人好き」ではなく(残念ながら私は人との会話が苦手である)、あくまで思考の対象としての「人」である。例えば私は卒論のテーマに「聖地巡礼」というものを据えた。伊勢神宮とか熊野三山とかの宗教的なものではなく、アニメやマンガの舞台をめぐる「聖地巡礼」だ。社会心理学と何の関係が、と思われるだろうが無理くり結びつけた。卒論で私が最終的に書いたのは「聖地巡礼」そのものを追いかけるよりも、それを行う人々がどのように「聖地巡礼」を経験しているのかを考えたほうが発展の余地がある、ということだった。実際の場所というものと「アニメ」の中の風景が勝手に重ねられていくというものの見方が興味深いのではないかという話だ。

以前した日常系アニメの話、ライトノベルの話もそのジャンルそのもの構造とかよりかは最近は「それを消費する人々」がどう受け止めているかを考えるほうに興味が傾いてきている。生来の尻の重さから動き出しては居ないけれど近くの図書館に参考になりそうな本はいくつか入っているようなのでまずはそれを読むところからスタートしていきたいなというのが今日1つ歳を重ねた私の心境である。

天狗は狸に説教を垂れ、狸は人間を化かし、人間は天狗を畏れ敬う。天狗は人間を拐かし、人間は狸を鍋にして、狸は天狗を罠にかける。

 そうやってぐるぐる車輪は廻る。

 廻る車輪を眺めているのが、どんなことより面白い。

(森見登美彦『有頂天家族』幻冬舎, 2010, p.9-10)

この世の天狗と狸の動きを見ることがかなわないのが惜しいが、世界を回す車輪の一部となった人間はかくも私の興味を引き続けるのである。

下鴨神社に住み着く狸になって偽叡山電車で洛中を走り回りてえ・・・ 

 

こだわり

人間何かこだわりを持つことが大事と言われる。それは幼なじみとのイチャラブ性活(超拡大解釈)かもしれないし、ある声優への著しいまでの傾倒かもしれないが何かに向かってひたむきにこだわる姿というのはなかなか魅力的に映るものである。

そう考えてみると私は何か「これ」というこだわりをあまり持っていないようにも思えてしまうのだが、私の財布の中身とカード限度額を常に蝕んでいる鉄道模型に関してはちょいちょいこだわりがある。

ご存知の方も多いと思うが鉄道模型の製品というのは本当に膨大である。特に最近は埼玉県蕨市の会社とか板橋区の会社とかが乱発しているせいでアイテム数はハイパーインフレ状態である。そうした状況だからこそ、購入するアイテムは絞り込んでいかなければならない。「こだわり」らしい「こだわり」を持たない私は、かつては「かっこいいと思ったものを買う」というクソみたいな基準で購入していた結果、統一感に欠けるコレクションとなってしまっていた。

しかしそれでは本当に財政破綻をしてしまうので最近は「これ」というものをきちんと選んで購入するようにしている。そんなこだわりを持って集めているカテゴリーに「阪急電鉄」と「京阪電鉄」というものがある。言わずと知れた関西大手私鉄のうちの2社であるが、どうしてかこの2社は私の心をつかんで離さない。

1つには以前に書いた私が好きな街である「京都」に向かう路線を持っているというのがある。京阪はその名の通りであるし、阪急も京都線を抱えている。しかもターミナルはJRの京都駅ではない繁華街(京阪はその限りではない)で独自感アピールをしているのも好感触である。阪急は京都線側はその出自もあってかイマイチなところもあるものの、そのブランドイメージは図り知れず、伝統のつやありマルーンに塗られた車両が闊歩する様は非常に憧れるものがある。私も住めるもんなら住んでみたいもんだ。

しかし関西でとある方と話をしていた時に、「関東の人はだいたい京阪か阪急が好きになる人が多い」という話題が出たことがある。私もご多分に漏れずその2社が好きなわけだが、関西にはまだ阪神と南海と近鉄という大手私鉄が残っている。確かに関東でのネームバリューを考えると球団を持つ阪神は別としても南海と大阪方での近鉄というのはイマイチパッとしないイメージがある。正直車両バリエーションでいえば阪急なんかより近鉄とか南海のほうが見ていて楽しいところもあるにも関わらずである。

とはいえ関西出身の人に聞いてみても南海はパッとしないイメージであるようなので(個人差があります)そういう立ち位置で動かないのかもしれない。


「南海体操」運輸部Ver. - YouTube

がんばってほしい。ので南海にこだわりのある方はよろしくお願い致しますね(ニッコリ)。

おでかけしよう

私は今日お休みである。昨日勤務を終えて上がろうと思った時、職場の人に「すごいゲッソリしてるから明日はゆっくり休んでね」と言われるくらいには疲れていたので今日は休むぞと思い、寝て起きたら正午を過ぎていた。朝食というか昼食を食べて、録り溜めていたアニメを消化する中で、最近気に入っている『干物妹!うまるちゃん』を見ていたらアニメの中では夏休みだった。その中で描かれていた冷房を効かせた部屋で日がな一日ゲームをするという生活になんとなく懐かしさを覚えてしまった。

世間的には学生の皆さんは夏休みである。自分も学生の時はバイトもしつつ家でダラダラ過ごしていた。サークルで長期で旅行をすることはあったけれどそれ以外に旅行をすることはまずなかったと思う。だから自分は出不精だと思っていた。ところが仕事をし始めて休日をそれまで通りダラダラ過ごしていると底知れぬ焦りを感じるようになってきている、というのは前にも書いた通りである。今この記事を書いている瞬間(17時半過ぎ)にも「ああ・・・休日が終わっていく・・・」という悲しさと「何もしなかったな・・・」という焦りが頭のなかを渦巻いている。こんな感覚社会人になる前はあんまり無かったように思う。

kuma-rapidexp.hatenablog.com

この記事の中で私は「『有意義に休日を過ごしたい』強迫観念」という言葉を使ったけれど、この記事から1ヶ月半経っただけですっかりこの強迫観念に絡め取られているようである。

いわゆる「意識高い系社会人」を目指すようなサイトを見ると「休日はしっかり休んでリフレッシュ!仕事はしっかりしてメリハリある日々を過ごそう!」というようなことが大量に書いてある。しかしどう「リフレッシュ」するか、というのには全くといいほど触れられてないことが多いように感じる。よくて「ジョギングしよう!皇居マラソンして所得アップ!」みたいなところである。運動のリフレッシュ効果を否定する気は全くないが休日にまで体使ってどうすんの?という疑念は正直拭い去れない。

じゃあお前はどうするのか、という話なのだが家でアニメを見る、鉄道模型をいじる、ヒトカラに行く、いろいろな解答になりえそうなものをこれまで呈示してきたがどうやら自分にとって最もリフレッシュになりそうなのは「出かける」ということなのだろうと最近思うようになった。自分は思っているより出不精ではない気がしてきたのだ。

確かに出かけると疲れるのは確かだ。しかし只見線に乗りに行った時にも感じたのだが、疲れていてもそれは翌日に引きずるような疲れではあまりなかったのだ。家にこもっているとどうやら精神が腐敗していくようである。幸いにして日々の生活の中で「行きたい」と思うようなところは多く出てくるものなので、それをつぶしていく形でお休みの日には積極的にお出かけをしていくというのが自分にとっての「有意義な休日」なのだろうと思うことにとりあえずした。

後はお出かけをいくらしてもお金が補充される口座ができるか、空から200億円降ってくるかを祈るだけである。これだけが悩みだ。

どれが声優?

最近ブログの更新が滞ってしまうのは仕事が忙しくて記事を書く時間がない、というわけではない。仕事が忙しいというのはあるのだけど忙しくて「頭がまわらない」というのが大きな原因だ。割とこのブログは自分の中の考えを整理する意味合いをもたせているので考え事をしないとなかなか書けないのだ。とはいえ疲れると頭が回らなくなるとは本当のようで最近は以前のようにボーッと考え事をすることが少なくなったように感じる。疲れると本当に「アレがほしい」とか「あそこに行きたい」とか欲望についてしか考えられなくなるので、どこかで性欲爆発させてる方も休めば理知的になるのかもしれない。

そんな中、先日Twitterでした話を。私の周りには「声優が好き」という人がそこそこいる。私もアニメを見ていて「この声がいいな」と思う声優さんはいる。沢城みゆきさんと小倉唯ちゃんである。それはそれで置いておいて、声優が好きという人は一体何を好きになるのかという疑問がある。「アニメのキャラの声を聞いて好きになるから声が好きなんだろう」と考えれば簡単だがそうは問屋がおろさないのである。

私は確実に「声」が好きか嫌いかで声優を判断している。能登麻美子さんを崇めて10年以上経つ先輩もこのテである。一方で「水瀬いのりかわいい」で知られる私の同期は(そろそろ本当に出演料払わなきゃと思うけれどこの間プレゼントあげたからよしということで)本人は「声で判断している」と言って憚らないが、その実「編みこみが」とか「おっぱいが」とか言ってるのでおそらく外見の要素が多分に含まれるのだろう。「種田梨沙かわいい」とか「上坂すみれのおっぱい」とか言っているのもおそらくが「外見的要素」に惹かれて「声優が好き」と言っているのだろう。

別に後者を否定するわけではないが、これは極めて興味深い捉え方だと個人的には思っている。「声優」というのは読んで字の如く「声」で演じるわけでありあくまで字義的に捉えるなら評価軸は「声」のはずである。しかし最近は演じるキャラクターから声優が遊離し「外見的かわいさ」で評価されることがかなり重視されるようになってきたように思える。

これはなぜかといえば圧倒的に声優の露出が増えたのが原因だろう。様々なイベントやアニメ雑誌に多くの声優が登場し魅力的なグラビアで彩られている。こういった「外見的」に声優が評価されるにつれ、アニメも「このキャラクターがしゃべっている」というよりも「あの声優がしゃべっている(のを媒介する手段としてのキャラクター)」というようにも捉えられるようになりつつあるのではないだろうか。これもまたアニメのみかたの多様化というか視聴スタイルの変化とも言えるだろうからかつてのオタクがどうだったのかも含めて検討してみたいところである。

ただひとつ言えるのは小倉唯ちゃんの声を聞き続けるとキャラがどうとか本当に関係なく脳みそがとろけるということである。