ある日森の中

ただただ適当に

休みが降ってきた話

前回は伊勢に行きたいという話を書いたが、伊勢に行く上で非常に重要なポイントであった砲台山でのっぴきならない事件が発生してしまったため、完全にこの話はお流れになってしまった。

しょんぼりしていたところに横からいきなり休みをたたきつけられた。入社半年で解雇になったわけではなく、会社の規定で年2回取得が義務付けられた1週間程度の長期休暇である。問題はこれが知らされたのが休みが始まる2週間前だったことである。せっかくの休暇、遠くへ出かけてみたいものであるがそんなタイミングで知らされては宿やらなんやらの手配を取ろうにもなかなか取れないものではないだろうか。

かねてから休みをくれくれ言っておきながら実際に与えられると右往左往してしまうというのはなんとも哀しい社会人っぽさを感じるが、幸いにして「長期休暇になったらこなそう」的なプランは頭のなかで思い描いていたからそれの組み合わせで旅程をでっち上げることができた。というわけで来週は旅行です。

駅員の「合計で○○円です」という声に対してカードを出しながら「1回で」と言うことに小さな幸せを感じるそんなちっぽけな私にもっと幸あれ。あとお金がほしい。

人生一度は

昨日が中秋の名月、今日はスーパームーンだそうで秋深まってまいりました。私は今日も無為に休日を過ごしているわけだけれど、最近は1ヶ月に1回くらい日帰りで出かけられればそれでいいかなと思っている。9月はでかけてないけれど。

そんな中最近は伊勢神宮に行きたいという思いが日に日に高まっている。理由は「夜空にのぼるきれいな半月を見たから」というおぞましいほどロマンチックなものだがただ純粋にそう思ったわけではない。伊勢は「半分の月がのぼる空」というライトノベル、コミック、アニメ、ドラマ、映画の舞台となった場所であり、作品の略称が「半月」であるからにすぎない。

この作品、初めて読んだのは中学1年生か2年生の頃だった。Wikipediaにはこのように書かれている。

あとがきにて作者が語るように空想SFなどの作品が多い電撃文庫作品の中で、このような穏やかな日常を描く作品は珍しく(特に1巻が刊行された2003年前後はその風潮が強かった)、その「日常」の中で人の死を扱った作品のため、ライトノベルの中ではかなりの異色作に分類される[3]。刊行に際しては「売れなければそれで終わりだよ」と言われるなど周囲の反対が非常に強く、橋本本人はその反対を押しのけて刊行したと語っている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%88%86%E3%81%AE%E6%9C%88%E3%81%8C%E3%81%AE%E3%81%BC%E3%82%8B%E7%A9%BA)

今でこそ当たり前のような「日常系」のある種の先駆けのような存在だったと言えるだろう半月持つ雰囲気に当時の私は引き込まれ、本編が完結した6巻では軽く涙も流したものだ。

原作を8巻まで揃えたのだが高校卒業時に後輩に譲ってしまい手元にはない状態が続いた。文庫版はその後登場人物のセリフを伊勢のことばに直した「完全版」がハードカバー単行本で発刊された。それもとりあえず手に取ることはなかったけれど、たまたま大学生協の企画で作者である橋本紡氏のトークショーに参加できる機会を得たことをきっかけにハードカバー版を手に入れた。再度読み返してみると当時と変わらぬ感動をまた味わうことができ、改めてこの作品に魅力に引きこまれてしまったのだ。描写は本当に「穏やか」な日常であるのは間違いないのだけれど登場人物達1人1人が背負っている「生きる」「死ぬ」という現実が深みを与えて作品を印象深いものにしていると私は思っているが、それを彩るのが実在の風景に寄り添った伊勢の描写だったのだ。

じつは中学2年生の時に伊勢は家族で訪れており、その時も原作を追いながらそれなりに楽しかった記憶もある。せっかく式年遷宮もあったことだし、きれいになった神宮とうっすら残る青春の思い出と作品への思いを胸に今すぐにでも伊勢に旅立ちたい心地である。

あとはお金とやる気とお金と休みとお金だけ。

 

枯れてる話

自分は良く老けていると言われることが多い。テレビを点けて喜んでみるのは80年代~90年代を振り返る番組、カラオケに行って歌うのは80年代邦楽、挙句親と話していても「あんたが自分の子供だと到底思えない」と言われる。自分でもスーツを着て佇む姿は"フレッシュマン"のは程遠い哀愁が漂っていると思う。

この間「エネルギー切れ」の話を記事で書いてつぶやいた後に、「考え方が老成している」という反応が返ってきた。仕事が諸々うまく行かないというとかそういうままならないことに対してやり場のない怒りというかそういうエネルギーに行かずにどことなく醒めて自分を見ているところが「老成」していると思わせてしまったらしい。

確かに「若さってなんだ」という問いに「振り向かないことさ」と答える曲があったように「若さ」という言葉には「ひたむきさ」、「熱心さ」、「がむしゃら」とかそういうワードが絡んでいることが多いと思う。今この記事を書きながら聞いている曲が主題歌だった『一週間フレンズ。』も高校生のまっすぐさが本当にストレートに心に染み入るいい作品だった。

話がずれた。『一週間フレンズ。』が心に染み入ってくると感じてしまう私は、一体何に感じ入っているのか。自分には無い、あるいは失ってしまった「若さ」を哀しい目で見つめているのか。とにもかくにも今の私にはそういう「まっすぐさ」が欠けてしまっているというのに今更ながら気付かされたのである。

いつからこうなってしまったのか。小学生の時から「今って言った瞬間にその今は過ぎ去ってるんだよなあ」と中二病ともつかないことを言っていたから救いは無かったのかもしれないが、高校の頃まではなんだかんだで部活にひたむきだったようにも思える。するとやはり大学生活だったのだろうか。サークルにひたむきでなかったわけではない。でもなんとなく「若さ」とは当時から無縁だったように思える。「しらけ世代」のような腑抜け感は常に私の周りにまとわりついていた。大学からのものの考え方にスッと馴染んでいけたのは高校生活末期に何かあったからだと自分では思っているのだが、そこで何かが変わってしまったのだろうか。この何かが今でも思い出せず、時々もんにょりする。

何はともあれ今の私には「若さ」は圧倒的に足りない。アンチエイジングが叫ばれる世界の中で、歳相応の「若さ」が見られないというのは確かに問題だ。しかしそんな自分が嫌いかと言えばそうでもない。なぜなら「生きやすい」からだ。人や物事に対してうまくいかない葛藤が生まれた時、そもそも自分の意志なんて相手にきちんと伝わるわけがない、社会が「適切に」自分の思いを理解してくれるわけがないと一度思ってしまうとこの世の辛いことは6割位なんとなく乗りきれるようになってしまうのではないだろうか。それでもうまくいかなくなった時、初めて怒りが生じてくるかもしれないが幸せなことに今のところそんな機会は少ない。怒ると余計にエネルギーを使うしそんなことより他のこと考えて居たほうがマシなのである。

願わくば自分の生きたいように生きることがもっと許される社会を。

「ゆらぎ」の良さ

すっかり週一更新になってしまいましたね。すいません、まだエネルギー不足が続いています。エネルギーが無いとものも考えられないのが困り物。

先日、とある男の娘イラストツイートをリツイートして「すんげえいい」みたいなコメントをつけたら「お前はなんで男の娘がそんなに好きなんだ」と言われた。私としては特段「男の娘」ばかりをクローズアップして愛好しているわけではないのだが、以前も書いたように女性キャラクターでも比較的中性的な見た目の方が好きというのがあった。

kuma-rapidexp.hatenablog.com

この記事でも書いたように、「境界域」だからこそ顕在化しやすい「女性性」というのが魅力を感じさせているのではと書いた。これは自分の中で一つの結論にはなっている。ただこれとは別に、これ以前から思っていた「ゆらぎ」に対する思いというのがある。

「境界域」にいる人達、というのは自分がいくつかに分節化された世界の中でどこに所属しているのかイマイチ受け止めきれていない部分があると想定できる。そうするとどこに自分が所属する「べき」なのかについて戸惑いが生じる。その一種の迷いを感じさせる様子がただただいじらしく、また迷いを乗り越え吹っ切れた時の爽やかさというのがキャラクター性を消費する側からすれば非常に心地よいのだと思う。これは私のあらゆるコンテンツに対してあるといいなと思っている要素(迷い、戸惑いと成長)を内包している、ないしは"想像"することができる、ここに魅力を感じているのだと思っていた。

これは私のいろんな好みに比較的通底している。例えば比較的年少のキャラクターが好き、というのは次のステップ(学校や"大人"という存在)に至るまでの不安や屈託ない希望を感じさせる「ゆらぎ」を感じ取れるからだし、好きな年代が80年代というのも「モーレツ」だった高度経済成長期とバブルの狭間という一種宙ぶらりんの時代に「ゆらぎ」を感じ取っているからかもしれない。

しかし私も一体どこへ向かおうとしてるのか、どこに着地するのか皆目検討がつかないぞ。

エネルギーが切れる

ブログは休みの日毎に更新、と思っていたけれどもそれすら叶わず1週間も放置してしまい申し訳ありませんでした。

タイトル通り最近どうにもエネルギー切れ感がしてしょうがない。そろそろ就職してから半年が経とうとしている。入社当時はいっちょ前にそこら辺の新入社員よろしく気概あふれる人材だったように思えるし、ここ半年の間は自分の希望が通ったり通らなかったりしながらただひたすらにガムシャラに動いてきてしまった。少なくともこれまではそれでなんとかなっていたのだ。

しかし入社して半年、本配属も決まり自分に割り当てられた仕事が次第に大きくなるにつれてただひたすらに動き続けるだけではどうにもならないところに自分が漂着してしまったようで、どうやらこれが入社以来のひとつ目の大きな壁になっている。

壁ということは認識しているし、だからこそ楽に越えられるわけではないということも分かっているつもりだけれどやはり越えるのは骨だしそもそも越え方を考えてあげないといけない。というわけで最近は割と生活エネルギーが消尽してしまっているのだ。

もちろんただエネルギーを失うがままにしているわけではない。たまの休みには出かけてみたりするし*1、今日だってカラオケに繰り出してきた。しかし根本的なエネルギーの回復には至っていないようで、少し働くとすぐに燃え尽きてしまう。どうすればいいのか煩悶としているうちにまたもエネルギーは無駄遣いされていくのである。季節が移り変わる中、現在ちょっと正念場である。

ただ耳元で流れるもはやギャグの領域になりそうなシチュエーションボイスを聞きつつ、三上ミカ先生のイラストをTwitterで見ている今この瞬間というのは割と幸せなのは間違いない。

*1:最近は黒部ダムに行った。月並みだが感動。

耳が弱い話

人間には五感というものがある。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚というアレだ。これ以上の感覚があるかどうかは知らないが、人間の知覚はこの5つに大きく支配されていることは間違いないだろう。この中で大きなウェイトを占めているのが視覚だ。軽く調べてみると85%くらいは視覚情報で成り立っているらしい。次点に来るのが聴覚らしいが今回はこの話。

確かに私達が生きているこの世界を「感じる」時に、「見る」ことと「聴く」ことというのはとてつもなく重要である。人はいつまでも見えないものを見ようとしたり、聞こえないものを聞こうとしてきた*1。アニメを見るときに「視覚」を構成する「作画」が重要であると同時に「聴覚」を構成するBGM、効果音、そして声優が大事になってくるのもうなずけるのである。適切な場面に適切なBGMやキャラに合った声優選びが問われてくるのである。

そんな大事な感覚を担う器官である目と耳も大事であるのは間違いない。大事なところというのは大概守られていたり敏感だったりする。頭は髪の毛や頭蓋骨で守られているし、股間のブツだって陰毛で守られている。目や耳も体の他の部分に比べれば大概敏感である。目に何か入ったらあのジブリ映画よろしく叫びだしてしまう。耳も敏感だ。耳元に息を吹きかけられて変な声を出した経験はおそらくどんな人でも一度くらいはあるだろう。

そう、人は誰しも耳が弱いのである。男をつかむには胃袋をつかめ、というが耳をつかむというのも1つの手段ではないだろうか。そこのところ声優は本当にうまい商売をしていると思う。ただでさえ魅力的な声優の声は通常のアフレコスタジオで録音された音声で効いても当然魅力的なのだが、特殊な録音でされるとその魅力が割ととんでもないことになったりする。それがダミーヘッドマイクだ。マネキンの頭だけみたいになっているものの耳の部分にマイクが仕込まれていて、それを使って録音することによって通常とは比較にならないほど臨場感あふれるサウンドを体感することができる。こんな感じで聞こえてくる。

www.youtube.com

音声の距離感、左右への振りが非常にダイナミックになるのと少しわかりづらいが左から右へ移動するのが通常の録音や編集では図り知れないくらい感じられる。どうだろう、話しかけられると全身が総毛立つようなゾワッとした感じがしてこないだろうか。耳の弱さを実感させられるのである。私なんかもう完全に虜になっている。

ここで例に出したものも女性向けであるのだが、なぜかこういう立体音響のような音源CDは同人では男性向けもあったりするのだが、商業作品だとほとんどが女性向けである。一回アニメイトの女性向けエリアにある「シチュエーションCDコーナー」に行ってみて欲しい。ツンデレCDとか妹に愛されすぎて眠れないCDとかそういうのをもはや凌駕したジャンルと物量の世界が広がっている。最近はダミーヘッドマイク収録作品も多いので男性声優に耳元で愛を囁かれる需要が高まっていると言えるだろう。

それとも男性オタクは女性声優に耳元で愛を囁かれたくないのだろうか。

*1:だからといって公序良俗に反してはいけないし声なき声を聞こうとされても困る。

オタクと性(その3)

その2で「オタク(おたく)」というカテゴリーがこの世に現れたことで初めてその言葉と異性(原義的には女性)とまともに交際できないというような意味付けが結びついて認識できるようになったという話を書いた。

「オタク」という主体がそういった性愛から引き離されたようなイメージを社会的に持たれる、ないしはその社会に巻き込まれていくことで自認していく一方でちぐはぐにも思えるが消費対象としてのアニメや漫画から「性愛」を見出すことこそオタクの中心的な行動の一つであった、という指摘もある*1例えばニチアサの主役、プリキュアシリーズには視聴者が性愛を感じるような部分というのはかなり慎重に取り除かれ隠されている。しかし一方でこれを見たオタク達は覆い隠された性愛をキャラクター同士の関係性、あるいは属性、容姿といった部分から見出し、つなぎあわせそれを表現する形でweb小説や同人誌を生み出している。現にプリキュアを元ネタとしたエロ同人というのはこの世に数多存在している。またそういった表現を視聴するオタクが再び「元ネタ」を見て一種答え合わせのようにそういった性愛の「属性」を再確認することで「元ネタ」の製作サイドが意図したものとはずれた文脈が生産され続ける、というのが「オタク」の行為として大きなウェイトをしめてきたからだ。

消費対象である作品には性愛を見出しつつ、「現実的」には「性的敗北者」というレッテルに対して極めて従順に行為している(ように見えている、あるいは見られている)結果として「性欲の充足がアニメや漫画で成り立っている」というまた別のレッテルを生み出しているのではないか。そしてなぜかこのレッテルが「オタク」によって変に肯定的に捉えられて「オタクである以上、性欲の充足は二次元キャラであるに越したことはない」というような変な自己カテゴライズが発生することが「非モテ」を脱することのできた「オタク」に対する恨みねたみ嫉みにつながっているのではないか、というのが仮定的な結論だ。ただ社会的なレッテルがどう「内在化」され自己カテゴライズに転換していったのかについては慎重に検討しなくてはいけないだろう。

消費対象であるアニメから性愛を見出してきたという「オタク」像に一石を投じるかのように思えるのがこと最近話題の「日常系アニメ」で盛り上がる人達である。「日常系」は基本的には「女子だけ」がキャッキャウフフするのをニコニコしながら見るアニメである。そこから作品だけを見て「性愛」を見出すことは難しいしそれを禁じるような向きもある*2。一方でお風呂シーンや水着シーンは必ずと言っていいほどあるし「性愛」を全くもって見出だせないわけではないというのは他の深夜アニメと似たところでもあるし、「日常系アニメ」のエロ同人もかなりの数ある。「日常系アニメ」に対してなんとなく広がる「性愛タブー」ははたして建前なのかマジなのか。建前な気がするなあ*3

*1:この辺は村瀬ひろみ「オタクというオーディエンス」小林直毅; 毛利嘉孝編『テレビはどう見られてきたか[テレビ・オーディエンスのいる風景]』せりか書房, p.133-152, 2003に詳しい。なんでこんなに詳細に書けるのかといえば卒論の参考文献にしたからだ。

*2:ゆゆシコは犯罪らしいし

*3:私はタブー感じちゃったりするけれどなんでなんだろう